麻井宇介『ワインづくりの思想』・考

2008.10.30   塚原 正章

哲学者たり、理学者たり、
詩人・剣客・音楽家
はたまた天界の旅行者たり。
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エルキュール・サヴィニャン・ド・シラノ・ド・ベルジュラック、
ここに眠る。
彼はすべてなりき。
しこうしてまた、空なりき。
(ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』)

架空の対話(前)

  登場人物:A(事情通) / B(塚原某)
 場面:さるワインバーで、グラスをかたむけながら、二人ともかなり酩酊の態。

A: きみは、麻井さんのことを書くといっておいて、ちっとも書かないじゃないか。いったい、書く気があるのかい?本当は、書けないんじゃないの?正直に言いたまえ。
B: のっけから、「書く」の活用形づくしとは、恐れ入ったね。それなら、こっちは、「書きますよ」、「書けばいいんでしょう」「書こう」としか、言いようがないね。それとも、「からまない」「からみます」「からむ」「からめば」「からむな」と、お返ししようか。
A: 誤魔化すんじゃ、ない。変格活用を持ちだすんなら、斎藤茂吉の万葉ぶりの「かも」と「けり」をからかった、辰野隆先生の域にまで達しなければダメだ。知らなければ、教えてしんぜよう。
鴨の足 蹴るかとみれば 蹴りもせず 蹴らずとみえて 蹴りにけるかも。
B: それじゃあ、せっかくだからきみのために返歌を一首、進呈しよう。
グラスの足 持つかとみれば 持ちもせず 持たずと見えて 持ちにけるかも。
まあ、酔っぱらって、ロブマイヤーのグラスを割らないよう、気をつけるんだね。
A:  よけいなお節介だ。辰野先生の作ときみの駄作とでは、教養のレヴェルや文才がちがう。きみの即席には、およそ雅趣というものが感じられない。
B: 鴨とグラスの違いのせいさ。鴨は食べられるけど、いくらロブマイヤーでも、しょせんグラスはワインの容器だから、飲むことも食べることもできない。
A: なにを言っていることやら。それじゃあ、罰として、空になったロブマイヤーに、なみなみとおいしいワインをついでもらおう。
B: ならば、 オーストリアではなくて、ハプスブルクの文化に敬意を表して、ガイヤーホフのシュタインライトンにしよう。でも、いくら大ぶりのロブマイヤーといっても、たくさん注ぐのは野暮というものだぜ。
A: ケチな話だ。まあ、よけいなお説教は無用と願おう。それにしても、いくらかは書く気があるらしいね。結構。それじゃあ本題に戻って、書いてみせろよ。
B: いつもながら、きみは評論家づらをする悪い癖があるけれど、残念ながら眼光紙背に徹して、ぼくが書いたものの背後まで読み取ることはできないようだね。
A: 嘘を言っちゃあ、いけない。すでに頭の中に書いてある、と誤魔化すつもりじゃないだろうね。
B: じつをいうと、ぼくはもう、この連載の中で、数回も書いているんだよ。ただし、麻井さんの名前をあげずに一般論の形で、だけれど。
A:  きみが書けない言い訳のなかに、「ほのめかし」や「つもり」程度なら、すこしは見た覚えがある。けれど、それは、お得意の逃げ口上じゃないのかい。だいいち、名前や主語を抜きにして、命題が成り立つとでも思っているのかい? 
B: 攻撃調は下品だから、やめたほうがいいよ。それにしても、きみに伝わらなかったことは、事実らしい。ほんとうのところ、この数カ月、いや、この何年ものこと、麻井さんの本は、いつもぼくの頭の中にあったから、いつでもどこでも、考えをまとめようとしていたんだ。だから、この連載のなかでなにか別のことを論じていても、つねに通奏低音のように、麻井論のスケッチが顔をのぞかせていたはずなんだがね。
A: まったく、ものは言いようだ。いったい、忙しいぼくに、きみの意図を察して深読みをしろ、とでも言うつもりかい。もし、きみの書いたものにわずかな数の読者がいるとしても、そういう大切な読者にまで、まさか深読みを求めているんじゃ、ないだろうね。
B: 評論家に対して書き手が意図を説明したり、解説するのは失礼だから、やめておこう。読者についていえば、ぼくは、かつての石川淳さんのような「限定1000部の読者」がいるわけではないけれど、約束は約束だから、きみの相手をして時間を無駄にするのはもったいない。さて、ワインはここらへんで切り上げて、帰って原稿を書くとしよう。

本論:麻井宇介『ワインづくりの思想』をめぐって

はじめに
 まず、率直な印象からはじめよう。とにかく、読みにくいのだ。といっても、文章が下手なわけではない。それどころか、例によって麻井流の流麗な文章なのだ。としたら、なにがそう思わせるのだろうか。著者が取り上げて議論の対象としたことがらが、つまらないせいか? とんでもない。じつに、興味深い問題を取り上げているのだから。とすれば、なんだろうか? 著者の麻井さんが拠ってたつ立場と、読者である私の立脚点がことなるためか? 著者と読者のあいだで立場の違いがあることは当たり前であって、逆に違いがあればこそ、いっそう面白くなるはず。それでは、不遜な言いかたをすれば、同じワインライターとして、やっかみがあるのだろうか? とんでもない。

私は書き手としての麻井さんを長らく尊敬し、その文章を敬愛してきた。『比較ワイン文化考』(以下『文化』と略す)が出版されたときに私は、雑誌『ヴィノテーク』でもって書評というよりは讃辞を呈したくらいで、存命中からつねづね麻井さんを、「日本でもっとも構想力と表現力にとむ、オリジナルなワインライター」と、しばしば公言していた。いまもって、その考えは変らないし、本書『ワインづくりの思想』(以下、『思想』と略す)を著したときの麻井さんの思考と表現に衰えがきたとは思えない。正確にいえば、ファンの一人としては、衰えたなどとは思いたくない。いっそう向上したとは、言えないにしても。

 ならば、結局のところ、どこに最大の問題があるのだろうか。その問題のありかを探って論じれば、今回のテーマについて手じまいできる、というくらいの見当なのだ。それにしても、まあ、ずいぶんと持ってまわった書き方だなあ、とわれながら思わなくもない。そろそろ、本論に入るとしようか。

 新書版で330ページ弱もある『思想』は、単に、日本を代表する醸造家の思索を集大成しただけの著作物ではない。それは、醸造家が、同時代と後世の醸造家に対して残した遺言であること、いうまでもない。著者の病状が芳しくない、という噂は麻井さんの生前、それもかなり前から大塚謙一さんを通じて耳にしていたし、ご本人も自覚されていたとのことだった。それゆえ、気力をふりしぼり、渾身の力を込めて本書を書きあげただろうことは、想像にかたくない。

 まずは手探りとして、『思想』を著者から頂戴したとき、添えられていた葉書大に印刷された挨拶文を一瞥し、要約することからはじめよう。麻井さん、勝手に引用したりして、ご免なさい。

 「…二十年前の著作『比較ワイン文化考』の「妹」の誕生までずいぶん時間がかかってしまいました。「世界のワイン事情の変化」と「文明化の流れを洞察」するのに「途方に暮れたためでもありました」が、「二十年という歳月はちょうどよい間隔であったかもしれません。ともあれ、ようやく、ようやく書き終えたいま、持続力だけが頼りだったとしみじみ感じております」 とのこと。持続力は、考察と体力にかかわるダブル・ミーニングであったのだろう。だからこそ、お礼の気持ちと読後感を著者にお伝えし、ともにワインについてじっくり語り合いたいと思っていたのだが、遠慮もあってついに叶わなかった。

多彩な内容
 さて、そのときの読後感である。いつもながら、自分がオリジナルに考えたことが、ずいぶんと雄弁に語られており、いかにも内容が詰まった、いや、内容が詰まりすぎた本だなという印象があった。逆にいえば、やや整理不足ではあるが、多彩な活動をおこなったワインライター麻井宇介の全容を、一冊でもってうかがい知ることができる。盛り込まれた内容をこちら流に整理すれば、①世界のワイン生産の主眼の推移(産地・技術・品種が、段階的に果たした役割)②醸造家・麻井宇介の活動歴(内外の産地での見聞と活動)、③無添加優良ワイン開眼録(ヴルティッチ氏との邂逅記)、④醸造の立場にもとづくワイン哲学(ワインは変わること、あるいは、テロワールと人間のかかわり方をめぐって)⑤若き後進醸造家へのアドヴァイス、
となる。

 このようなトピックス・内容と主張を、コンパクトでしかもわかりやすく説くことは、流石の麻井さんの腕をもってしても難しかったであろう。しかも、持ち時間はたっぷりと残されてはいなかった。①は、「段階論的にみたワインづくりの変化」と言いなおすことができて、それにもとづいた全体の章立て(プロローグ、産地、技術・品種・テロワール・つくり手の各章、エピローグ)こそ、すっきりとしているが、②から⑤までの濃い内容があちこちに盛り込まれ、しかも同義の繰り返しが少なからず見られるため、鮮やかな統一像がやや結びにくい。私が編集者であったならば、〈世界のワイン生産の段階論的な動き〉について一冊を編み、〈醸造家・浅井宇介の歩みと、今後のワインづくりへの提言〉をまとめ、〈わがワイン哲学〉とあわせて三部作としたいところであるが、時間は氏にそれを許さなかっただろう。

注目すべきテロワール論
 本書のなかでもっとも注目すべきは、意外に思われるかもしれないが、麻井さんのテロワール論である。麻井さんは、単なるテロワール否定論者ではなくて、いまや「宿命論的風土論」と化し、既存の有名産地(麻井さんいうところの「銘醸地」)の、排他的なスローガンとなりおおせたテロワールという言葉に、異議を申し立てたのである。

 テロワールについては、前のエッセイで触れたことがあるが、基本的に二つの見方がある。テロワール=実在説と、テロワール=イデア(観念)説である。つまりは、存在と認識をめぐる、ギリシャの昔からの対立した見方である。たとえば、美は実際に存在するのか(誰が美人であるのか)、それとも、美という観念だけがあるのか(どのような美しさを人間から感じるのか)という問題である。麻井さんと筆者はともに、基本的に後者のような見方をしている少数派、ということになる。

 多くの、特にフランス産地側の見方は、テロワールは実在し、優れたテロワールは、優れたアペラシオンを有する地域に固有なものだとして、既存の産地の優位性を証明するための方便に用いられている。『思想』から引けば、「『テロワール』は概念ではなく、畑の位置、起伏、土壌の成分、構成、その場所をとりまく気象、生態など、実在する事象ではないか」とする主張である(P.188)。

 それに対して、観念論の立場からすれば、「それら(上記のような実在説が拠りどころにするものごと)は『テロワール』を組み立てている要素ではあっても、銘醸ワインを生み出す母体そのものではない」(同上)。「いうまでもなく『テロワール』の根幹は、その場所に天賦された『自然界の条件」』である。(が、)ワインに即して考えるならば、ブドウ畑に潜在するポテンシャルである。それをどう引き出すかは、『つくり手』の力量にかかわる。その結果であるワインは、「テロワール」そのものを表現しているのではない。ワインという作品によって『つくり手』が表現した『テロワール』なのである」(P.261).

 つくり手にアクセントが置かれすぎている点を除けばまったく同感であって、わたし流にいえば「テロワールとは、ワインの味わいのなかに体現された、産地に固有な土壌・風土・気候・環境である」となる。あるいは、「産地の気」といってもよい。

 さらに注をつければ、クロード・ブルギニョンの説(『酒販ニュース』2008年9月21日)は、観念説にちかい有力な反映論である。同氏によれば、ワインは二種類に分けられる。「土壌の特徴を反映した『テロワール・ワイン』と、土壌を反映していない、幹から上の要素だけでつくりあげられた、品種の特徴だけの『ヴァラエタル・ワイン』」である。土壌の性質は、「物理的性質」「化学的性質」「微生物的性質」に三分されるが、ワインになったときに果たす土壌の役割がどの程度であったかは、計測できない。にしても、ブドウ樹・土壌・土壌生物の三者が結ぶその土地固有のサイクルが安定的に続けば、その特徴を反映したブドウ、ひいてはそれを反映したワインがつくられる。これは、いかにも説得的な考え方であって、テロワール=観念説を側面から補強するものとして、あえてこの場で紹介しておこう。

 さらに蛇足を付け加えれば、『思想』が世に出た当時、私はル・テロワールというインポーターを合田とともに創設し、その運営に外からかかわって数年をへていた。そのころ『思想』で、麻井さんが少し前に出会ったばかりのプロヴィダンス事件からはじまる叙述を読んで、テロワール信仰に対するこだわりと対抗意識が、あまりに強すぎると感じて辟易し、いささか抵抗感を覚えたものだ。無理をして論理を組み立てているような気配が、濃厚なのだった。それならば、つくり手としての麻井さんは、テロワールを見事に引き出したワインを作品として表現したのだろうか、と。だが、それは別に論じるとしよう。

 さて、麻井さんに比べればこちらは業界外の若造だったから、対等なお付き合いではない。けれども麻井さんは、こちらの生意気な意見にも耳を貸してくださり、自説に非があれば喜んで認めるという、大人(たいじん)ぶりであったから、論争にいたりようがない。

 麻井さん亡きあと、この国で本格的にワインを語り合いたい論客が見当たりにくい現在となっては、麻井さんと大いに論争しなかったことが、かえすがえす残念である。

 もし、麻井さんといま、遅ればせの議論をすることができるならば、やはり、テーマはテロワール論になるだろうか。あるいはこれを、文化と文明といいかえてもいいだろう。が、本格的にこれを論じる機会は別のときにしよう。あえていえば、麻井さんには、文化と文明の複雑で多様な関係に深い洞察を加えた、川喜多二郎『素朴と文明』(講談社学術文庫)を咀嚼しておいて欲しかった。それはさておき、旅の身のうえの今は、テロワールについて断片的なスケッチだけを加えて、前月号の補論としよう。

敵はいずくにありや、あるいは二分法について
 麻井さんの著書の特徴のひとつは、論じるものごとのなかに、「敵」が想定されていることだ。温容をたたえた顔貌の持ち主であった麻井さんらしくない、と思われるかもしれないが、麻井さんは論争家たる資質がゆたかであった。ただし、思考が文章のかたちをとったとき、内心でおこなわれた議論は表から姿を消し、かえってやや断定調になる癖がみうけられるけれど、それもまた魅力のうちだろう。

 さて、『文化』では、スノッブが敵あつかいされ、攻撃と揶揄の的となった。『思想』では、「宿命的風土論」が敵とおぼしい。スノッブも宿命的風土論とやらも、なにやら私と親和性がありそうなのに、苦笑せざるをえなかった。いったい私は、麻井さんの潜在的な敵であったのだろうか(冗談)。

 まあ、おふざけはやめるとして、敵を設定することは、同時に味方の陣営を想定することであり、こういう発想は「ダイコトミー」、つまり二分法に陥りやすい。しかしながら、敵・味方、善・悪といった二分法、あるいは二項的な対立構造の設定(たとえば記号論)は、議論が単純化されているため、直感的にわかりやすい反面、議論が過度に単純化されるから、深くて複雑な生産的思考にはおよそ適さない、と知るべしである。

文化と文明
 『思想』では、文化―文明という対立軸が基本をなしているのだが、意外にも本文中で文化と文明の定義が明確にされてはいない。「文明の本質は普遍性にあり、ゆえに、それは動くもの、動かせるものである。ワインの文明化を促すのは、クローンの明確な苗木であり、栽培や醸造の技術情報である」(P.182)とされるが、説明不足の憾みなしとしない。おそらくは、麻井さんが研究員として属した国立民俗学博物館の館長、梅棹忠夫氏の文明論あたりが理論的な基盤にあるのだろうが、御大の文明論(『文明の生態史観』)にしても、日本を西ヨーロッパと親近性あるグループとアプリオリにみなす、魅力的ではあるが自己中心的な現状追随型の作業仮説にすぎない)。

 著者はこの対立軸を自明のものとしながら、たとえば、プロローグの章でさっそく「いま、ニュージーランドに輩出しつつある洗練されたワインは、文化というより文明の産物ではないか」(P.6)と、断定をくだす。が、続く補足の一節でも、文意はあまり明瞭ではない。まして、「『品種』は、文化として存在してきたワインを文明材として読み替える変換コードであった」(P.149)となると、記号論めいた文章が消化不良気味なせいもあって、いささか首をかしげざるをえない。

銘醸地は動く?
 こういった調子で、文化と文明の対比があたかも公理のように文中頻繁に登場すると、ようやく著者の発想の癖が理解できるようになる。著者は、比喩が好きなのだが、ここでは比喩がたとえ話ではなくてあたかも実在するかのように、しかも名調子で語られているのだ。「はたして、銘醸地は動くのであろうか」(P.12)という殺し文句もまた、その一例である。ここで、「産地―銘醸地」という、著者の頭の中にある価値づけされた対立軸を、頭の中に入れておかなくては、読者は理解しにくい。

 「銘醸地が動く」などという表現にであうと、あたかも山や畑が動くかのような印象をうけ、妙な実感とともに感心しかねないが、比喩はあくまで比喩。吉田健一の短編小説のなかにあるような、魔術師が瞬時に城を動かしたり、入れ替えたり、もとに移し戻したりする玄妙な描写とは、わけが違う。

 至るところに見られるこういう単純化や比喩と、その酔ったような反復は、著者のような知性の持ち主にふさわしくないことだけは確かである。行きつくところ、こういう叙述の繰り返しはあたかも張り扇片手の講談といった趣となり(紋切り型表現のもつ繰り返し効果については、桑原武夫の大衆文化論を参照のこと)、これまた冗談のようにしか聞こえない。が、麻井流の高級講談を愛するワイン人は、こういう一節が登場するたびに快感を覚えるのだろうか。

 さて、ここから進んで、次の問題に移ろう。人はえてして自説を補強するのに都合のよい例を傍証として引用するものである。麻井さんにもまた、多岐にわたる事実と文献を博捜したあげく、自説を裏付けるのに都合のよい事実を集めるくせがあるのだ。そういえば、かつて私は、麻井さんの不適切な引用について、私信でもって指摘したことがあった。麻井さんは著書のなかで自説の裏付けとして、マイケル・ブロードベントのテイスティングにかかわる著作から、ある一節を引用したのだけれども、その個所がマイケルらしからぬおかしな一文だった。そこで原文に当たったところ、翻訳が間違っていたどころか、文意が正反対に訳されていた。すなわち、実際には麻井さんの主張を裏切るにひとしい文章の引用なのであった。まさしく、「翻訳は裏切り」なのである。

 誤訳された一節を好都合とばかり引用するのは、引用者が原文を読んでいない証拠でもあって、このような危険を防ぐためにも、以後私は翻訳書を参照せず、原書を入手し、原文に当たって引用するようになった(これは、私たちが、日本に輸入されているワインを厳密な意味でのテイスティング対象とせず、産地または産地から遠からぬところで、良好なコンディションのもとでテイスティングすることを品質評価の原則としていることと、同じ発想である)。

 ただし、通常、麻井さんのワインブック(原書)の選択はなかなか筋がよいだけでなく、選択眼が鋭いのも事実であって、また通常は引用する個所もじつに適切なことが多いことを、ここで付け加えておこう(『思想』のなかで、麻井さんは拙訳から3か所も引用して下さり、汗顔の至りなのだが、引用されたその一節は麻井さんの文意に即して適切かつ説得力があり、麻井さんの見識を示している)。

整然とした体系のわな
 麻井さんのもう一つの癖は、整然とした論理と体系化を好むことである。それは、『思想』の章立てにも如実に表れている。プロローグの総括表である「20世紀後半のワイン(年代記風に)」のなかで、「~1950年代」は「産地の時代」、1960年代は「技術の時代」、1970年代は「品種の時代」、1980年代は「テロワールの時代」、1990年代は「つくり手の時代」とされている。著者によれば、「宿命の風土論」が1960年代以降に崩れだすのだが、その新しい波が(恐慌や大不況のように)10年ごとに「技術」「品種」「テロワール」と続き、1990年代に「ついに『つくり手』が登場した」とされる。まるで、「天の巻(技術と品種)、「地の巻(テロワール)、「人の巻(つくり手)」という配分を思わせる構成ではないか。まとめ役として最後に人が現れ、フランス文学史ならば「ついにマレルブ登場す」というような格好になっているのは、これまた単純化された疑似論理にすぎない。

 たとえば私は、学生時代の趣味として始まった自分のワインの飲用と選択(45年を上まわる)において、初めから生産者、つまりは「人」を基準としていた。インポーターの仕事を側面援助したり、あるいは運営したりしてすでに20年たつが、(著作が書かれた2001年の指摘として)1990年代にようやく「つくり手」という人間が登場した、などという記述を読むと、可笑しくてたまらず、思わず吹きだしてしまう。あたかも、デウス・エクス・マキナのように、最後の場面に登場する救いの神のようではないか。ワインは(あらゆる芸術とおなじく)徹頭徹尾、人間がキーワードなのである。麻井さんは、「宿命的風土論」を壊滅させる最終段階で、人間を登場させたかっただけである。なぜだろうか。ここに、著者の基本的に醸造家としての立場があるだけでなく、後進の指導者という自己設定があるだろうことを忘れてはならない。

予言者・麻井宇介
  麻井さんはあたかも予言者の如く、あるいは、アジテーターのごとく、若きつくり手たちに対して、「きみたちの時代が来た。時代がきみたちを待っている」と言わんばかりである。これまで私は、頭脳優秀な煽動家の名演説を何回も聞いたことがある。たとえば、大内兵衛氏や羽仁五郎氏。学問的な文章(エッセイ)や講演のなかでの大内さんは、筋は単純でわかりやすく、話し方はゆっくりと穏やかでユーモアを感じさせる一方で、じつに人を食った表現と発想をする大秀才であったが、議論の進め方は心理の動き方をつかんで見事なものだった(美濃部都知事誕生前日の、名アジ演説など)。

 羽仁さんの著作(『都市の論理』など)や講演にはよく接した。彼は厳密な意味では論理が弱いのだが、これまた人を食ったしゃべり方だし、エピソードの選び方も卓抜でタイミングよく、聞き手をその気にさせるものだった(「君たちは、ある自民党政治家の演説を知っているか。『われは死すとも自由は死せず(板垣退助が遭難したときの言葉とされる)。自由は死すとも、わが党は死せず』といったんだ。自民党の正体はこんなものだ。安保闘争のとき、ニューヨーク・タイムズは、なぜ自民党政権とアメリカが大衆的なデモで攻勢をかけられたか説明に窮し、この政党(LDP)に“neither liberal nor democratic party”と括弧に注記したくらいだ」)。こんなことを覚えているくらい、私は上手なアジテーション演説が好きで、評価をしている(煽られて行動するのは嫌いだけど)。じっさい、上手で知的なアジテーターは、日本ではきわめて稀な存在なのだ。

 そこで麻井さんにもどると、『思想』におけるアジテーターとしての氏の論理は、やや物足りない。一見したところ、(羽仁さんのように)歴史の流れをあたかも客観的にとらえたかのように整然たる構成をとっているが、詮ずるところ、ワインづくりにおける醸造家の役割という当たり前ながら重要であるポイントを強く訴え、情熱的に繰り返し述べているだけのような気がする。もっと、知性の粉飾がほしかった、というのは、変な注文かもしれないが。

レイト・カマー?
 ここで付言すれば、どうやら麻井さんは、ヨーロッパにおいて独立型の生産者(個人)が、(近代)技術や品種、著名なテロワールなどには無頓着に、じつに個性的で優れたワインを生み出している現象がはじまっていたのに、あまり注目なさらなかったようなのである。ヨーロッパの優れたオーガニックないしバイオダイナミック・ワインの可能性に早くから注目していた私たちとしては、あえていえば麻井さんは、この分野のワインと生産者については、ややレイト・カマーだったと評さざるをえない。氏がわざわざニュージーランドに風土のしばりや固定観念を超え、逆に「比類なき風土」を発掘したと絶賛するプロヴィダンスがあると知ったのは、プロヴィダンスとしては初リリースかもしれないが、オーガニックの流れからすれば、「遅くも」1998年2月のことなのだ。かの麻井さんにして、SO2無添加でつくられているワインの凄みに触れたのが、かくも近年のことだったことに、むしろ驚かざるをえない。

 けれども、驚くべき味わいのワインが、ボルドー型品種でしかもメルロ種にもとづき、ヨーロッパ以外の無名でしかも新しい地で、近代技術とは無縁ながらワインつくりの原点である作業方法を無意識に採用している、といった諸事実が、桔梗ヶ原でメルロを図らずも選ぶ羽目になった麻井さんにとって、絶大な印象と無比の説得力を提供したのであろう。いずれにしろ、このワインとの出会いが麻井さんにとって深く衝撃的であったがゆえに、その後の麻井さんの動きは速くかつ徹底的であった。別の表現をすれば、これまでの醸造家・麻井宇介を自己否定にまで導いたといっても過言ではない。この点を、私はおおいに評価する。たとえば、かのジョスコ・グラヴナーにしても、自身が過去に築いた偉大な成果をあっさり否定し、(ことの当否と味の出来栄えは別として)バイオダイナミックへの転換とアンフォラ醸造をえらんだ勇気と誠実さに、私は感心せざるをえない。だが、あらためて言うまでもなく、理論はさておき、最終的にどのような味わいのワインを作品としてつくるかが、醸造家にとって、唯一の問題である。さあ、麻井さんはどうだったでしょうか。それを暗示するのが、『思想』の予言的な性格である。後世にそれを託した、というのが私の見方なのだが、それを本書のような形に含めてしまうと、ワインを愛好する一般の読者は、煙にまかれてしまうおそれがある。だから、三分冊にすべきだったと思慮するしだいなのだ。それが無理だったならば、「若き醸造家諸君におくる」とでも題する、高い理念にみちた啓発と指導の書を残すべきであった。

 だが、いずれ、麻井スクールから優れたワインが日本に登場することはあろうと、麻井さんを超える〈歴史家・ワイン哲学者・醸造家を兼ねる上質のワインライター〉が、ふたたびこの国に現れることはあるまい。およそ醸造家(とソムリエ)は、ワインにまつわる思考を文章化することに巧みではないからだ。そこで、(『思想』の最後に登場するつくり手の代わりに)本職のワインライターの出番となる。ワインライターも、麻井さんから学ぶことが多大にあるはずである。いや、学ばなくてはならない。ここは麻井さんもどきに、「志たかきワインライター、出でよ」と締めくくりたい。

2)テロワールは補助線であること
 ご存じのように、初等幾何学の証明に用いられるのが、補助線である。たとえば、「直角三角形の斜辺の平方は、他の2辺の各平方の和に等しい」というピタゴラスの定理を証明する際に、補助線の引き方は多数あるというように、補助線はいろいろな引き方があって、証明するのに有効であるならば、どれであっても構わない。けれども、証明の仕方には、初等数学でも同じことだが、力技をふるっただけの汚くて味気ない方法もあれば、シンプルかつ優雅で美しい方法もあることは、その美技に接した方はみな、ご存じだろう。

架空の対話(後)

A まだ読んではいないが、どうにかやっと書き上げたらしいね。ずいぶんと面やつれしているようだぜ。柄にもなく、無理をしたのだろう。
B そんなことはない。いつもの調子さ。ただ、ちょっと長く書きすぎただけだ。
A きみには、信州人のように、簡単なことを難しく書く癖があるからね。もっとわかりやすく書く工夫をしたまえ。わかりにくいのは、十分に考え抜かれていない証拠だ。
B また、お説教がはじまった。それに、差別的な表現をするのはよくない。それはともかく、麻井さんについて書くのは、ちょっと大儀だったな。読みとおすのが厄介なんだ。
A きみには、大作を読みとおす気力が欠けている。おっと、欠けているのは知性かな。でも、『思想』は新書版じゃ、ないの。
B 十分に刺戟はあるが、あれもこれも詰まっている本なんでね。もしかしたら、戦略的にモザイク状に内容を散りばめて、著者の思考の筋を通そうとしたのかもしれない。けれども、ふつうの読者は、同じ主題や場所のエピソードは、ひとまとめにしてもらいたいと思うに違いない。
A よく考えさせるために、ブレヒト流の異化効果を狙ったのかもしれない。高等戦術なのさ。
B それにしても、麻井さんはワイン界のすべての事柄について、確たる意見の持ち主だったから、自分の評価を与え、意味づけようとする。だから、事実と価値を峻別するのが面倒なのだ。
A そういうきみだって、意見めいたものや、偏見に満ちあふれているじゃないか。ただ、もっともらしい理屈をまぶしているだけで。おっと、信州人のように、というところだった。
B そういえば、丸山真男さんも、大学セミナーハウスで開口一番、「人間は意味のない世界では生きていられない」といっていたね。
A まさか、丸山さんに自らを擬しているんじゃないだろうね。きみならさしずめ、「人間はワインのない世界には生きていられない」というところだ。
B バレたか。それじゃ、面倒くさい議論は切り上げて、ワインを飲むとしよう。書き終わった骨休めに、カッペッラーノのバローロ・キナートをいただきたいね。これには、ロブマイヤーのグラスではなくて、ドリアデのリキュール・グラスがいい。
A 能書きはともかく、乾杯!
B 麻井さんの霊に、乾杯!

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