ヴェネツィア便り

2008.10.1   塚原 正章

思い立ってヴェネツィア
 いまは、旅先のヴェネツィア。夕食に出かける前の寸暇を盗んで、この走り書きをしている。
 じつは、仕事と生活に少しだけ区切りができたし、医者からも骨休みをするよう勧められたので、思いきってイタリアに来てしまった。旅の友は、後述するように愛用のガイドブック数冊と、田野倉稔の近著『林達夫・回想のイタリア旅行』。だが、愛すべき回想旅行記は、旅のさなかにいつの間にか消えうせてしまった――徹頭徹尾、自由な知性のかたまりであった林さんその人の精神のように、いまごろはイタリアを徘徊しているのだろうか。それに引きかえ私は、せっかくイタリア、しかもヴェネツィアという人工の楽園にいるのに、残念ながら漫遊にひたっているわけにはいかない。
 そもそも、仕事が趣味(の一部)と重なっているのが運のつき。気分はなかば休暇モードなのに、そうは問屋がおろさない。なぜって?イタリアでワインに取り囲まれるということは私にとって、まるで真剣勝負を迫られているようなものだから。たとえていえば、科学者がまれな実験材料の宝庫に放り込まれたような具合なのだ。こちらは、気もそぞろになって、ついフィールドワーク、という情けない仕儀になる。つまりは、仕事をする場所が変わっただけというあんばい。あげく、いつものことながら、短いイタリア滞在のあいだに用事を詰め込み、あるいはむしろ積極的に仕事を作ろうとしてしまうから、日頃に倍して忙しい。とすれば、なんのためにわざわざ偏愛するイタリアに来たのだかわからず、休暇もへったくれもあったものではない。愚かなことだ。
 それにしても有りがたいことに、現地ではワイン生産者や仕事仲間が歓迎してくれるし、ふんだんに刺戟的なワインにも恵まれるから、少なからず発見がある。相手を選んでもろもろ尋ねれば、思いがけない情報が返ってきて、状況がいっそうよく見えるようになるし、こちらの認識不足を改めることができる。
 そこで、ヴェネツィア。イタリアでも日本でも、行き先としてこの地名をあげると、ほとんど誰しも、優雅なレジャーが控えているものと勘違いし、羨ましがられる一方。だが通常、私にとってヴェネツィアはまずもって、仕事のハブのようなところなのだ。だいいち、各地あるいは世界の選びぬかれたワインが集まっている。のみならず、交通の便が比較的よいから、イタリア北部の産地には行きやすいし、知合いも少なからずいる。
 たしかに、ヴェネツィアは類のない景観にめぐまれ、よいワインと飛び切りの魚があふれる本物の別世界だから、グルマンの疲れを癒すのにはもってこい。とはいえ、“too much of a good thing”(結構ずくめ)は悩みのタネでもある。贅沢なように響くかもしれないが、自由になる持ち時間が足りないのに、あちこちにご馳走が並んでいるようなぐあいで、嘆き(?)は尽きない。おまけに、ここでなければできない仕事もあれば、原稿も書かなくてはいけない。

 とはいえ、またしてもフランスとイタリアを旅行中とあって、手元に参考文献がないうえ、あいにくコンピュータも故障して使えないため、例によって記憶にたよって走り書きをする破目に追い込まれた。ゆえに、不正確な記述になるだろうことをご承知のうえで、意を補ってお読みいただくよう、あらかじめお願いするしだいである。

ヴェネツィアめぐり必携
 振り返れば15年近くまえ、初めてヴェネツィアを訪れたのはイタリアの主要都市を巡るグループツアーの一環だったから、まったく美味いものにありつけず、ひどい欲求不満におちいった。そこで単独行を決めこんでツアーの一行から離れ、現地の日本人ガイドの意見を参考にいくつか店を選んだはずなのに、魚は古くて異臭を放っていた。例の「メニュー・トゥーリスティコ」(観光客用メニュー)だったのだろうか。
 あまりのまずさに懲りたので、次回にそなえて英語のグルメ雑誌をめくっていたら、フレッド・プロトキンの「冬のヴェネツィア美味探訪」という記事に運よくめぐり合った次第は、まえに書いたとおり。彼のガイドにしたがっていくつか店を訪ねたら、まず、大きな外れはなかった。まして、彼の個性的な大著“Italy for the Gourmet Traveler”(第2版)は、イタリア全土の主要都市をカヴァーしており、ヴェネツィアの記述もおおいに参考になった。(惜しいかな、イチオシの極上フリット・ミストが食べられた大衆的なトラットリーア・アンゾロ・ラッファエルは、オウナーであった料理人一家が店を抜けてしまい、今はもう見る影もない)。
 もちろん、最良のガイドを探し出すのが先決なのだが、事情通のアドヴァイスにしたがって訪ねるべき場所と時期を選び、現地の住民の流儀にのっとることが秘訣、と思い知った。まさしくフレッドが説くとおり、逆説的ながらヴェネツィアでは観光シーズンを敬遠し、雨風と冷気に見舞われがちの冬の時期に訪れ、ヴェネツィアの住民がひそかに楽しんでいる各種の店に行けば、まず失敗はないことが、身をもって実感できた。だから、夏にもカーニヴァルにも来たことがない。
 さて、いったんヴェネツィアめぐりのコツが飲みこめれば、あとはイギリスのガイドブック“Time Out Venice”と、頑丈で要を得た折りこみ地図“Streetwise Venice”を懐にし、須賀敦子『ヴェネツィアの宿』、矢島翠『ヴェネツィア暮らし』、角井典子『ヴェネツィア的生活』といった、ヴェネツィア暮らしを堪能した知的な女性たちによる、行き届いた数冊の著作をひもとけば、いっそう充実した旅と生活が楽しめること、請け合いである。その点、写真家の篠利幸による近作『ヴェネツィア カフェ&バーカロでめぐる、12の迷宮路地散歩』は、豊富な経験に基づく情報を満載するが、店の重みづけがわかりにくいのが難点である。
 ところで、今回ヴェネツィアにいて気づいたのは、フレッド・プロトキンの項でも触れたが、いくつか馴染みの店が消えていたこと。たとえば、リアルトの船着場ちかくに店を構えていたカーテン屋は、愛想もよくて気軽に利用でき、まことに重宝していたのだが、徐々に店を縮小し、ついには姿を消してしまった。さて、これからはどこでオフィスや自宅用のカーテンを仕立てたものやら? 超一流の劇場(ミラノ・スカラ座)やホテル(チプリアーニ)用ならば、ヴェネツィアで専門の生地屋と仕立て職を知らないではない。ちなみに、東京のリストランテ・ラ・グラディスカでは、そういうところのご厄介になったのだが、天井が低いありきたりの仕事場や生活空間には、豪華すぎてちょいと向かない。
 といった嘆きは、やはり贅沢すぎるのかもしれない。やはりお前は、ヴェネツィア暮らしを満喫していたのではないか、と指弾をうけそうだ。あえて、その非難に甘んじてもよいが、イタリアではたとえば北ならば、トリーノ・ヴェローナ・ボローニャといった由緒のある町ならば、当然ながら心がけしだいで旅路をゆたかにできる。

ヴェネツィアの内と外
 じつは俗説に反し、長らくヴェネツィアの根本的な課題は、高潮(アックア・アルタ)と水没に抗することではなく、河川がもたらす土砂や泥でラグーナ(干潟)が埋まり、島々が陸上都市と化す危険に対抗することだった。そのためヴェネツィアは、絶えず海底を浚渫(しゅんせつ)するだけでなく、賢明にして大胆にもアドリア海に注ぐ河川の流れを変えてラグーナの外域に導き、河川と海を治めて海上交易を確保することに腐心したのだとか(ピエロ・ベヴィラックワ『ヴェネツィアと水』)。
 ご存じのとおり、今なおヴェネツィアは人工美の極地ともいうべき歴史的な個性をつらぬき、島上生活のルールがまったく他所とは違う。だから、自動車交通などという現代の病弊から離れ、その地のルールにのっとって船と足で動きまわれば、まったく異次元の世界にひたれる。ヴェネツィアは狭くて密度の濃い町なので、観光客といえども迷路を抜けて数回も同じところを訪ねれば、おのずと街並みと店に溶けこめるから、他所の町よりも親密な人間関係を結ぶことができる。旅行者が再訪を繰り返すことが少ないからであろうか。
 さいわい数日をこの地で過ごしたあと、たとえばミラーノのような現代感覚あふれる大都市に移動すると、ヴェネツィアでは視野が局限されていたことに気づくものだ。狭い天地に曲せきしていれば、どうしても空間の感覚や距離感がせせこましくなってしまう。他の都市に来れば、おのずとものの見方と生き方を意識的に修正するよう強制されるから、大袈裟にいえば時空を超えた両世界探検ができる。その意味でも、ヴェネツィアは貴重な存在である。
 といった面倒な議論から離れて、イタリアの醍醐味を味わう話に戻ると、日本人のガイドブックあるいはガイド記事ならば、やはり現地に根を生やした優れた女性ライターの意見に耳を傾けたい。その一人が、トリーノ在住の宮本さやかさん。達意の文章で内容も深く、信頼がおけるリポーターだから、インターネットの配信記事(門上武司食研究所・海外「食」レポート)などをお探しくださいな。得るところあるはずです。
 ところでなぜか、私は(自分のことは棚にあげていえば)日本の、それも男性ライターに不信を抱きがちである。たとえば、ワインやレストランの批評や案内のたぐいは、知識をひけらかすことではなく、実用性が唯一の目的でなくてはいけないのに、世に横行するものはだいぶ違う。その知識すらもいい加減なことが多いのだが、問題はそれだけでない。どういうわけか日本では、(著者名を挙げることは憚るが)さまざまな思惑や不純な意図が透いて見えるような述作(術策?)に、よく出会ってしまうのだ。たしかに、どんな本にも書き手の明確な狙いと意図が不可欠である。けれどもいったん、すました文章の背後に怪しからぬ思惑がうごめき、著述が単なる利害的な言動に堕していると気付いたならば、興味は索然。読書の悦びが、いっぺんに覚めてしまう。しかし、まあ、どんな本やワイン、レストラン(と、さらには人)にも、短所しかないわけではないだろうから、おたがい、下品なあら捜しは慎まなくてはなるまい。

 などと言いつつ、またしても麻井さんのご本から遠ざかってしまった。サマセット・モームと違って当方は、づた袋いっぱいの本を携えて長旅に出かけたわけではないので、ヴェネツィア話に免じて、お許しを乞うしだい。

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