今月は小休止の弁

2008.8.28   塚原 正章

 思うにまかせないのが人生である――などと勿体ぶりながら、今月のエッセイを予定どおりにお届けできない弁解をさせていただこう、というのが今回の私のさもしい魂胆である。
 そもそも今月、エッセイをまとめ上げられなかった理由は、なんとも散文的である。たんに、読書用の眼鏡がしばらく行方不明になっていたため、広く書物に目を通すことができなくなったというしだい。じつは私事ながら、数ヶ月前に片目だけ白内障の手術をしたのだが、人工レンズを入れると自力で視力調節ができなくなるから、ものを見るのに以前にもまして不自由になってしまった。眼鏡も遠・近用の2種類が肌身離せなくなり、しかも近距離用をもってしても前より本が読みにくい。楽しみの読書ですら、ちと面倒くさくなったのだが、それはやむを得ないにしても、その読書用をアホなことに、さる病院に置き忘れてしまったのだ。あいにくお盆休みの最中とあって、置き忘れ先もずっと休業中だし、かといってこの期間、にわかの新調もレンズの手配がままならずに不可能。というわけでこの10日間ちかく、読書はもとよりコンピュータのディスプレイからもなるたけ離れ、オフィスの外では音楽を聴いて時を過ごすという、無邪気な趣味に浸っていた。つまりは、エッセイを書くための準備がまったく出来なかった。
 ならば、本の参照や引用など抜きで書けばいいじゃないか、という疑問が当然おこるかもしれない。和風の叙情で相手を煙にまく俳文体や雑感ならば、それも可能だろう。けれども、まず、その手の文を読み書きすることは私の苦手とするところであって、少時から私になじまない。  だいいち、麻井宇介さんの『ワインづくりの思想』を論じようとしたら、たんに論理を整えるだけでなく、論を補強するための(特に世界のワイン状況に関する)情報・評価と問題意識、さらには論者自身の確たるワイン観が欠かせない。なぜなら、と書き出せば本論になってしまうから詳細は遠慮するとして、ヒントだけを書いておこう。麻井さんの渾身の作は、前作『比較ワイン文化考』の自己否定という側面があるだけでなく、日本におけるワイン造りのあり方について後進に対して残した遺言という、いわば実践的な性格がある。つまりは、氏の代表作(前著)、氏の全人格と、日本のワインのあり方にかかわるだけに、通りいっぺんのレトリックや感想で済ますわけにはとうていいかない。前回のエッセイで「問題の」という形容詞を『ワインづくりの思想』に添えたのは、そのような見通しがあったからである。

 わたしの見方と問題意識が、すでにこのようなものならば、まあ、結論は見えているようなもの。だが、それを書くとなると話は別。それに、暑さは峠を越したかもしれないが、汗まみれの議論をするのは辛気くさい。というわけで涼気が訪れるのを心待ちにしつつ、当方の準備が整うまで、本格的な麻井論はお預けとさせていただきますので、あしからず。

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