内外のワインライターたち(続き)

2008.7.31   塚原 正章

アシモフの受賞
 まずは、耳よりの話から。先月のエッセイを配信した直後に、ニューヨーク・タイムズ紙が誇るワイン・ジャーナリストのエリック・アシモフが、ヴェロネッリ賞を与えられたという情報がとびこんできた。ジェレミー・パーゼンJeremy Parzenが発信しているブログ『ド・ビアンキ』(Do Bianchi;ベネツィア方言で、「白(ワイン)2(杯)」の意味)によれば、「食とワインについて、イタリア語以外で書かれた最上の文章」部門で、第3回「プレミオ・ヴェロネッリ」(ヴェロネッリ賞)を授けられたとか。ヴェロネッリ賞の選定委員会がアシモフを指名した理由は、書き物が「勇気ある独立不羈」をたもち、「イタリアワインについて深遠な知識を有している」からであるとされる。まさに、わが意を得たり、というところ。エリック、おめでとう!
Do Bianchi by J. Parzen
 ちなみに、このパーゼンがよって立つブログ『ド・ビアンキ』もまた、常に注目に値する。2007年にはじまった当ブログの目的は、イタリア語を解さない人のために、イタリアの美食文化についての洞察を伝えるという高邁なもの。当年とって41歳の著者は、料理とワインの歴史研究家にして、イタリア語の英訳家でもあるロック・ミュージシャン。ゆえに、相当に異色の存在であって、ブログのカバーする領域も広くてかつ面白い。また、バーゼンは、イタリアのワインライターであるフランコ・ズィリアーニ氏とともに今年3月、英語で“Vino Wire”というイタリアワインに関するフレッシュな情報提供を開始し、さっそくブルネッロ事件の正確な報道を開始したことは、関係者の間で、よく知られている。
 今年7月21日号では、問題のベルルスコーニ首相が、コルディレッティ(イタリアの強力な農業団体)でおこなった演説と、その戯画を紹介している。ブルネッロ事件で生産者側を後押ししたベルルスコーニは、その演説の中で、若手のアグリ・ビジネス人に招かれたことを光栄としながらも、「自分はブルネッロ・ディ・モンタルチーノのような存在であって、年とともに向上熟成する」と自画自賛したよし。コリエーレ・デッラ・セーラ紙の政治風刺漫画家エミリオ・ジャンネッリは、これをパロディー化してからかう。道化姿の自称ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ氏が「加齢とともに、自分は向上する」と話しつつ、首相のグラスにワインを注ぐ。これをテイスティングしてスピットした首相が、「でも、これはブルネッロではない。ブルネッタだ」と述べる。ブルネッタとは、ベルルスコーニが指名した若き閣僚の名前である、というオチがついている。
 Vinography by A.Yarrow
 このパーゼンとともに見逃せない書き手が、“Vinography”を主宰するオールダー・ヤーロウAlder Yarrowで、ワイン・ブロガーのパイオニアと認められている、多才で頭脳明晰な人物である。当ブログの読者は世界135カ国に広がり、日本は上位9番目の読者数に達するのは、しばしば日本酒が取り上げられるからだろうか(最新30日間の統計による)。ヤーロウのブログは、扱う酒類の範囲が広いだけでなく、議論の構造がしっかりしていて鋭い。たとえば、ロバート・パーカー個人の影響力を誇大視する皮相な見解への批判(本年6月28日)。それを傍証するとしてヤーロウが持ちだすのが、コーネル大学ホスピタリティ・リサーチ・センターの30年にわたる統計分析レポートである。同レポートによれば、ワイン批評家/雑誌(ワイン・スペクテイター、ロバート・パーカー、スティーヴン・タンザー)の、メドック産ワインに対する個別評価ポイントがかなり相関性が高く、3者の評価に共通性が高い一方で、評価の点数じたいは概して、パーカー、スペクテイター、タンザーの順に低くなる傾向があるという指摘は、興味深い。
 これは、アメリカ人に共通した味覚のなせるわざなのだろうか?そこで次にヤーロウは、数百のボルドーワインの過去4ヴィンテッジについて、多くの評論家が与えた評価の研究を参照する(Bordoverview.Com)。たとえば、英仏の代表的な評論家(ジャンシス・ロビンソンおよびミシェル・ベタンヌ)と、パーカーおよびスペクテイターをふくむ多数のワイン批評家が、2004年にトップとしてあげた20ワインの重複率は、60%以上であるとか。つまり、ワイン評論家たちによる、個別のボルドーワインに対する評価は、きわめて相関性が高いことになる。だとすると、「他の重要なワイン評論家の評価が、過去数十年にわたってパーカーのそれに近いとすれば、パーカーがワインの世界を破滅に導いた、という説は成り立たない」とする著者ヤーロウの指摘は、なかなか鋭い。
だが、こんな調子で若き優秀なブロガーを紹介していたらいくらページがあっても足りないので、ここら辺で別の話題に切り替えよう。

前回エッセイを省りみて
 ところで、前回のエッセイは――あれでも短く縮めたつもりだったが――なにせテーマがワイン・ライティングときたから、張り切らざるをえず、山盛りになってしまった。にもかかわらず結果的には、マット・クレイマー『ワインがわかる』の訳者あとがきと、『ワインの事典』(産調出版、1997)に寄せた「何を読むべきか―外国編」の域を大きく出ることがなく、旧説の繰り返しに終わった感がなくもない。

 いったい、ビブリオグラフィー(書誌)をまとめようとすれば、当然ながら網羅的になって、個別の書物に対する評価がおろそかになりがちになる。おまけに、辛口の批評はとかく同業者や関係者からは敬遠される。すでに時効だろうから書いておけば、『ワインの事典』に私が最初に寄せた原稿は、概して日本人の著作と翻訳書のレヴェルが低いと断罪したから、監修者によって「日本編」の部分はカットされ、甘い味付けが施された文献一覧にすり替えられてしまった。そういえば、一作を著すごとに必ずあらずもがなの敵ができる、と公言したのは、わが偏愛するイヴリン・ウォーでしたっけ。

 先にあげたワインの文献案内を編んでから、すでに10年あまりが経つ。はたして、その間に、内外のワイン・ライティングと日本の翻訳書が、どのような潮流をたどったのだろうか? 前回のエッセイで言及しなかった目ぼしい収穫についても、触れておくべきだろう。内外の別を立てて論じるのは面倒だから、ごく大雑把に見てみよう。

1. 日本における翻訳書:歴史の復権
ロジェ・ディオン『フランスワイン文化史全書 ぶどう畑とワインの歴史』

 内容とサイズにおいて文字どおり最大の訳書は、ロジェ・ディオン『フランスワイン文化史全書 ぶどう畑とワインの歴史』(福田育弘・三宅京子・小倉博行訳、国書刊行会、2001)である。フランスの文化地理学の厚みに裏打ちされた浩瀚な一冊は、まともにワインの歴史に取り組もうとする者にとって、枕頭の書の第一候補となる。ワインの歴史の発見ともいうべき本書が、多くのワイン文化史の種本になったのも理の当然であって、たとえば最近訳が出た『ボルドーVS.ブルゴーニュ せめぎあう情熱』(ジャン・R・ピット著、大友竜訳・日本評論社)も、歴史をあつかった部分は、基本的に本書に負っている。

通説(銘醸ワイン産地には風土的な必然性があるという神話)に目もくれず、表面的な事柄の背後にある社会的な事実の太い因果関係を読み取る著者ディオンの発想は、推理小説もどきにスリリングであるが、事実関係を丹念に例証しながら展開される議論についていくのは、単なるワイン好きの読者(私もその一人)には相当にしんどくて、1ヶ月の禁酒期間を要しそう。本書の初版(1953)をパリの古書店エドガー・ソエットで、例によって店主の勧めで入手をしたもののまったく歯が立たず、書棚の飾りになってしまったという苦い記憶がよみがえる。

その点、この記念碑的な翻訳の音頭をとった福田氏が、その前に編訳出版された、ディオン『ワインと風土』(人文書院)のほうが、研究者ではない一般読者には著者の考え方や発想の特徴がわかりやすいので、お勧めしたい。ついでながら、福田氏(かつては、渋谷のワインバーやワイン会でよく出くわしたことのある、個性的な人物)のエッセイ集『ワインと書物でフランスめぐり』(国書刊行会、1997)は題名どおりの内容で、ことに書物の散策という部分は今でも古くなっておらず、心に余裕のある博雅のワイン人向けというところか。

マルセル・ラシヴェール『ワインをつくる人々』

 同じフランスの碩学でも、マルセル・ラシヴェールの手になる『ワインをつくる人々』(幸田礼雅訳、新評論、2001)は、大著『フランスのブドウ栽培史』(未訳)を書き終えた著者が、あまり肩に力を入れずにブドウ畑から見た歴史の点描集。ここに手練の訳者を得て、わかりやすく読みやすい作品となっているが、内容は本来の意味で(中国の)歴史家の随筆、つまり本文に書かなかった研究余禄のようなものだから、地に足の着いた内容の濃い農業史といえる。

ディオンとラシヴェールを踏まえて、今日まで「人がいかにワインを飲んできたか」を通史的に概観したものが、リヨンに根を生やした歴史家ジルベール・ガリエ『ワインの文化史』(八木尚子訳、筑摩書房、2004)。上記の2冊に劣らず、情報量が多くて読みごたえがある力作であるが、やや教科書的な叙述がなくもない。

 以上の3冊が、フランスを中心とした、ワインとワイン文化の歴史として、ワイン愛好家の書庫をみたすべき大作である。いずれも素面でなくては手出しが出来ない読みでのある史書だから、ワインを飲んでばかりいないで、ときにはグラスをおいて、ワインを生み出し、愛しんできた人々の歴史に思いをいたすのも悪くはあるまい。DRCやドメーヌ・ルロワの1本を買う値段で、3冊の大著が簡単に手に入るし、頭脳と意志が堅固ならば何ヶ月も楽しむことが出来るのだから。ともかく、本格的な歴史書が翻訳で登場してきたのは、日本におけるワイン文化が、そろそろ熟しかけてきた兆しかもしれない。

2.自然派ワインに関する著作
大状況

 ビオロジックやバイオダイナミックによる栽培と醸造の動きは、いまや世界のワイン界の一大潮流となりつつある。この事実は、これらのワインとは相容れない立場をとる一部のエノロジストやワイン業者といえども、認めざるをえないはずである。なぜならば、まず思想的な観点からして、少なくとも栽培をビオロジックにすることは、環境配慮型の選択であるし、次に、原料生産と加工の段階で、添加物を可能なかぎりミニマムにとどめることは、少なくとも健康意識が高まった現在の先進国では、ワインをふくむ広義の食品製造業において公理にも等しいこと(ちなみに、公理は証明できない)。三番目は、この栽培と醸造法は技術的に一般化しにくいという難点があるが、少なくとも完成度が高くて洗練された自然派ワインに関するかぎり、味覚の世界を広げるくらいの衝撃をワイン人に与えたこと。その意味では、ブリア=サヴァランのいう宇宙の発見にも匹敵する新しい味覚の発見である。

 ただし、いまのところ、難点があることもまた事実である。①技法に留まりがちで技術がマニュアル化に適さず、科学的な命題のように誰もが追試・確認できるわけではないこと、②環境条件によっては、ビオロジックな栽培が困難であり、バイオダイナミックはなおさら覚束ない地域があること(特に日本)、③作業が機械化を排するために手間がかかりがちで、それに要する人件費を価格に転嫁できにくいこと、④栽培については、ビオロジックが望ましいことは、ほぼ世界中の優れた生産者ならば(内心)認めざるをえないところまで評価が確立するにいたったが、醸造については、生産者によって方法もまちまちならば、生まれた製品もレヴェルがまちまち。いずれにせよ、これらの考え方にもとづいた完成度の高い作品を造りだす生産者の数は、筆者の見方からすれば限られているといわざるをえないこと。

 日本は、世界でも類のない自然派ワインのにぎわう国であって、インポーターも過熱気味である一方で、温度コントロールがよい保管設備と、(全国的ではないにしろ)整った流通網を生かすことが可能な(あくまでも可能性にとどまる)環境ができあがっている。しかも、それらのワインの味わいに対する消費者の受容性も高い。が、最大の問題点は、消費者が入手可能なワインが、質とコンディションの点で、とてつもない玉石混交状況であることだろう。販売側の宣伝やイデオロギーに惑わされず、自力で味わい分ける味覚と、開けつつある新しい世界への想像力が、いまこそ真のワイン消費者に求められる。

 さて著作物のできばえは?

 このような状況の中で、議論を整理して問題点を明らかにし、ビオロジックとバイオダイナミックの思想に基づくワインの進むべき方向を示した説得的な書物は、まだ見当たらない。これらを是とする宗教的な説教師やプロパガンディストの説法は、信者にしか通用しない。逆に、科学を装いながらその実イデオロギー的に、これらの動きに反発するだけの議論は、感情(または経済的な立場)を正当化する域から出にくい。説教師側の造るワインが必ずしも美味でなく(ワインも飲まず、畑の手入れも自分でしない、という有名なイデオローグもいる)、一般のワイン愛好家に対する説得力に乏しいという難点もある。他方で、反対派が主導する技術オリエンテッドなワインは、まったく感動から無縁である。要するに、どちらの側も教条的であって、問題はできあがったワインの質と味わいなのである。

 ビオロジックやバイオダイナミックの是非をめぐる議論をたどったものとしては、パトリック・マシューズによる“Real Wine”(立花峰夫訳、『ほんとうのワイン』、白水社)があるが、議論の整理が要領をえないため論旨がたどりにくい、というのがほぼ一致した世界の書評である。かつて原文を一読した際、個々のインタヴューの内容にはきわめて面白いものがあったのに、著者による内面化と論理化がともなわず、読後感が混乱した印象が残った。部分の和は全体ではない、という平凡な結論である。著者は、『オクスフォード版ワイン事典』におけるジャンシス・ロビンソンの議論の仕方に、大いに学ぶべきであろう。

Monty Waldin“Biodynamic Wines”

 そこで、バイオダイナミックなワイン造りであるが、各国の生産者リストのような本あるいはカタログの数は、すでに少なくない。が、考え方の歴史、理論と実践、世界の生産者を概観した大部の著作が、モンティ・ウォールディンMonty Waldinの“Biodynamic Wines”(Mitchell Beazley, 2004)である。正直いって、筆者はこの本の全体は未消化であるが、ニコラ・ジョリーを相対化し、シュタイナーに始まる創造的な先人たちと、現代の諸理論家・実践家を追跡した第1部には見識が認められるし、優れた(とされる)生産者を網羅しようとした努力には、敬意を払わざるをえない。本書に関する大方の書評をまとめれば、「バイオダイナミックの考え方を是としたうえで、この世界を案内する、いまのところ最良の著作」ということだろうか。逆に言えば、この方法に関する批判をふまえた、様々な議論の吟味が、この労作にはまったく欠如している。その意味では、(結論的には同一路線にあるとしても)マシューズの本の構成とは対極的である。個人的な経験からすると、そこに掲げられた生産者のワインを現地で少なからず試飲した結果としては、著者の味覚に対して疑問がなくもない。たとえばイタリアの状況については表面的にしか捉えられておらず、まして近年における生産者たちの複雑な動きは、当然ながら触れられていない。

 バイオダイナミックのワイン造りについて書くためには、マット・クレイマー並みの偶像破壊的な創造力と強靭な論理、それを支える微妙で周到な味覚を要するだけでなく、ビジネスの利害関係を脱した公正な見方が求められる。がゆえに、このジャンルで書くのは容易ではないが、だからこそ優れた新人ワインライターが登場する機会があるのだ。

3.啓蒙的な「ワインの科学」の出現
 およそ啓蒙書は、頭脳が優秀で柔らかい専門家が、達意の文章で書いたものでなくてはならない。が、よくできた啓蒙書ほど役に立つものはなくて、読者はいっそう興味を覚えてその先に進みたくなるものだ。ブドウの栽培とワインの醸造についても、同じことが言えるが、なかなか出来のよい啓蒙書には出会わない。そもそも、ワインを楽しむためには、書物をひもとき、ワイン学校に通う必要などないわけで、ましてエキスパートの資格など、純粋な楽しみの邪魔にすらなりかねない。人生すべからく無位無官がよろしく、ワインを独学するにしても、教科書めいた本や、資格を取るための受験参考書に類するものなど、無用の長物である。だいたい、栽培や醸造の詳細なテクニックを知ったところで、ワインを飲み楽しむために実践的な意味はあるまい。ルネサンス期のヒューマニストの問いかけをもじれば、「それは(キリストではなく、キリストの血である)ワインにとって、どんな関係があるのだろうか?」 どだい、情報は自分を毒したり、他人にひけらかすためにあるのではない。目のまえのグラスに注がれたワインの味わいについて、なぜそういう味わいがするのか、を帰納的に考えるのに役に立つ情報さえあればよいのだ。

アンドリュー・ジェフォード『ワインを楽しむためのミニコラム』

 その点、アンドリュー・ジェフォード『ワインを楽しむためのミニコラム』(中川美和子訳、TBSブリタニカ、1999)は、科学一辺倒の本ではなくて、入門的な啓蒙書という性格なのだが、なにしろ要領がよくて面白く、素直に読みとおすことができる。ジェフォードの文章の書き方は、様々な主題を自分なりに理解して内面的に咀嚼したあと整理し、わかりやすくまとめる、というもの。知ったかぶりの知識の披露は、ジェフォードとは無縁だから、達意の文章を読んでいて気持ちがよい。また、問題の設定が適切なうえ、「なぜ……なのか?」という疑問が各チャプターに埋め込まれており、自分への問いかけと読者と対話しようという意識によって、全編が貫かれている。

 ジェフォードの代表作ともいうべき『新しいフランス』“The New France”(未訳。 Mitchell Beazley, 2002) が評判を呼んだのも、むべなるかな。こちらは、各地域を代表する人物のポートレイトや主要な生産者情報を織り込みながら、地域別の問題点についての個人的な見解も用意してあるという具合。ジェフォード自身が、楽しく考えたプロセスがうかがえる快作である。

明快で個性的な清水健一『ワインの科学』

 ところで、本論の「科学」。ワインの科学については、内外で単行本や事典類が出版されていることは事実であるが、消費者の実用的な関心に応えられるものは多くなさそうにみえる。ところがどうして、ワイン造りの現場にいる日本人科学者によって書かれた、一般向けの信頼すべき著作があるのは、ご存じだろうか。清水健一『ワインの科学』(講談社ブルーバックス、1999)である。よくワインの教科書気取りの本には、科学の分野に属す知識が羅列されているが、そういう本の著者たちの多くには、科学の基本的なトレーニングや素養がないことが文章からして明白である。つまり、記述が因果関係の説明になっておらず、疑問を論理的に解明する力量がなく、単なる引用やひけらかしに堕しがちとなる。その点、清水氏の素養と業績には一点の翳りもなく、しかも自分の考えが明快に示されている。

 清水さんには、合田と私が(有)ル・テロワールを営んでいた時期、コンテナ事故による保険請求のため、ワインの品質劣化を鑑定していただいたことがある。コンテナ船が海上輸送中に火災をおこし、リーファー・コンテナの電源が切れたために、明らかにワインが熱劣化をおこした。そのためル・テロワールでは、参考調査用に各アイテムを1ケース保存したのを除いて、自発的に全品を廃棄処分した(1年後に保留分をテイスティングしたところ、すべてのワインは凡庸で立体感がなく、デリケートな風味が消えうせていた)。余談だが、その事故にあった他のワイン輸入業者は、事故品を販売に供したとのことである。そのときの清水さんの爽やかながら人懐っこい人となりと、科学者としての判定には、敬意を表したものである。

 本書の中でも著者の姿勢には妥協がなく、明晰な判断が示されている。たとえば、「なぜ日本ではワイン用ブドウの栽培が難しいのか?」という節では、欧州系ワイン用ブドウ栽培が、「ごく一部を除いて、品質的な成功例は少ないように思います」と、断言してはばからず、気候・土壌・微生物学的要因の検討に踏み込む(p.52)。著者は現在、アサヒビールのホームページのなかのASAHIWINE.COMの「素朴なギモンQ&A」においても、短いが歯切れのよい文章で、明快に自説を述べていて、健在ぶりがうかがえる。ちなみに、そのvol.13では、日本におけるブドウ栽培の困難さについて率直に述べた後、「ただ、収穫されたブドウからのワイン醸造技術は、発酵の先駆国である日本が最も優れており、収穫ブドウの不足要因をカバーすることが可能です」という、ユニークな意見を開陳している。

ジェイミー・グッド『ワインの科学』

 この6月に出版されたばかりのジェイミー・グッド『ワインの科学』(梶山あゆみ訳、河出書房新社、2008)は、とても出来がよい。栽培の科学、ワイン醸造の科学、ワインと人体の科学という3部構成は、同名の清水氏の著作とほぼ共通した構成をとる。が、違うのは、書かれた時点の状況と現代の価値観をより反映しているため、テロワール、ビオディナミ、ミクロ・オキシジェナシオン、アルコール除去とマスト濃縮、亜硫酸の添加、還元臭の原因、ブレタノミセス、コルク臭の問題など、厄介ながら重要な問題に、興味深い検討を加えている。ここに扱われた問題と著者の考え方をより深く理解するためには、私は清水氏の日本語著作を読んでひととおりの体系的な知識を身に付けてから、この訳書に取りか掛かることをお勧めしたい。

 ジェイミー・グッドについては、氏のホームページを数年前からしばしば訪れていたため、旧知のような懐かしさすら感じた。植物科学者として出発した著者の基本的な素養と、科学書のエディター歴があいまって、サーヴィス精神があふれた科学的な探索の書がここに出現した。むろん、ひけらかしの議論は皆無。客観的であろうと努める著者の誠実な態度が、科学と銘打った書物にふさわしく、また、ほとんどの読者にとっては新しい動向がたくさん盛り込まれている。ひごろワインについて楽しみながら疑問をもって考えてきたワイン愛好家は、読み出したら止まらないこと請け合いである。科学的な追及精神と、現代的な問題意識に裏打ちされた、考えるためのヒントにあふれる好著である。推薦。

4.シャンパーニュ・ブックは花盛り
 最近のシャンパーニュ市場の伸張は、書物が先導したのか、それとも製造・販売のマーケティングの賜物なのだろうか。むろん、歴史的に見ても後者の影響が強いことは否定できないが、ことはそれほど簡単ではない。造りだしたシャンパーニュの質と個性の点で、レコルタン・マニピュラン(RM)が、ネゴシアン・マニピュラン(NM、通称グラン・マルク)に伍して、勝るとも劣らない力量を発揮し、消費者もまたそれを認知しはじめた、という市場の変質と進化もまた、大いに寄与していることも考慮しなくてはなるまい。

 汗牛充棟ただならぬシャンパーニュ・ブックの性格と、著者の力量および判断力を占う基準のひとつが、RMについての記述の中身と評価である。なぜなら、シャンパーニュとその同業組合は、事実上大手のNMによって牛耳られており、個別の広告とマーケティングもまたNMが圧倒している状況だから、書き手もまたそれに大きく左右されがちなのである。したがって、書き手の柔軟な判断力、独立自尊の意識と、強い意志がなければ、RMに焦点をあてた文章は書きにくいのが実情である。

 さて、販売促進効果の点はさておくとしても、この10年間にシャンパーニュに関する書物が、内外で大量に上梓されたことは事実である。海外の出版物のなかでは、スウェーデン人のリチャード・ジューリンRichard Juhrinの登場は、シャンパーニュ界の大事件であった。連続して出された“2000 Champagnes” (Methusalem AB,1999) と、事実上その改訂増補版にあたる“4000Champagnes” (Frammarion, 2002)である。著者ジューリンの好みは明らかに古いシャンパーニュなのだが、その体験そのものを共有することは、スティルワイン以上に難しいから、読者は指をくわえてひなびた古酒の味わいを想像するしかない。とはいえ、彼の発する情報量と個人的なテイスティング記録(新版では文字どおり4000種類だとか)は、およそシャンパーニュに対して積極的な関心を有するものにとって、導きの星でもあれば、歴史的なモニュメントでもある。オール・アバウト・シャンパーニュという趣があり、大冊の前半は歴史・製法・タイプ・料理・村別特徴・ヴィンテッジ評価などの説明にあてられるが、古酒好きゆえか、RMに関する大局的な評価が示されていない点にモノ足りなさを感じなくもない。にしても、本書の圧倒的な強みは、後半を占める個別の生産者とワインのパートにある。各タイプ別シャンパーニュについて、官能評価の記述と、評価点数が丹念に記載されている。もし孤島にシャンパーニュではなく(シャンパーニュを持ち込むとするならば、シリル・レイの絶妙なエッセイがある)、シャンパーニュ・ブックを一冊しか持ち込めないとすれば、本書を選ぶのが妥当であろう。むろん、大手のNMについてはよく社史のたぐいが出版されているから、もしあなたがクリュギストであるならば、流麗な文体のジョン・アーロット『クリュグ』“Krug: House of Champagne”(未訳、1976)を選ぶのもよい。栓を開けたときのため息のような微妙な音についての記述は、なんとも色っぽいものがあるから。

 近年の翻訳では、ジェラール・リジェ・ベレールGerard Liger-Belair『シャンパン 泡の科学』(立花峰夫訳、白水社、2004)を無視するわけにはゆくまい。物理学研究者の手になるだけあって、泡の発生機構の説明が説得的である。ただし、アッサンブラージュ(ブレンド)を無批判に持ち上げているのは、著者がM社のコンサルタントを勤めていることと無関係ではあるまい。科学者たるもの、スポンサー筋にかかわる記述には神経質であってほしいものである。ついでにご紹介すれば、物理学教授のシドニー・パーコウィッツによる『泡のサイエンス』(はやしはじめ/はやしまさる訳、紀伊国屋書店、2001)が、広く泡の世界を科学的に渉猟しているだけに、教養派の読者にはぜひお勧めしたい。

 さて、小体のシャンパーニュ・ブックとしては、大型版ではトム・スティーヴンソン、やや小型版ではアンドリュー・ジェフォードの“The Magic of Champagne”(1991)、ニコラス・フェイスやセリーナ・サトクリフなどの単行本など、それこそ枚挙にいとまがない。ポケットブック版ではマイケル・エドワーズの旧作(Mitchell Beazley、1998)が、かつて私の愛読書であっただけに、なつかしい。なお、微妙なテイスティング能力に秀で、イギリス式の控えめな文体で語るマイケルは、現在シャンパーニュに関する本格的な著述に携わっているという話だから、出版が待ち遠しい。

 日本でも、シャンパーニュに関する本が無数にある。たとえば、『シャンパン物語』、『田崎真也のシャンパン・ブック』、『超シャンパン入門』、『シャンパーニュ データブック』など、これまた枚挙にいとまがない。が、なかには他のソースから引用もしくは編集した「泡沫」ものがある(あるいは、あった)ので、独自に現地で長期取材をおこなったものだけを厳選するにこしたことはない。上記のなかでは、田崎氏のものが写真取材に工夫が凝らされているので一見の価値はあるが、例によって料理とのマリアージュの章は、無くもがなである。

山本昭彦『死ぬまでに飲みたい30本のシャンパン』

 ここまで記したところに、ちょうど著者の山本昭彦さんから表題のご本(講談社、+α新書)が贈られてきた。これを読まずにおられるか。というわけで、飲むものも飲まずに一気に読みとおした。著者はヨミウリ・オンラインで骨太のインタヴュー記事に活躍中の、気鋭のワイン・ジャーナリストである。私は氏をワイン生産者に紹介する際は、いつも「日本でもっとも優れたワイン・ジャーナリストです」と、お世辞抜きで言うことにしている。つまりは、氏が現在のわがヒイキ筋のジャーナリストであって、西川恵さんと故・市倉浩二郎さん(ともに毎日新聞社・編集委員)以外で、日本のワイン・ジャーナリズムを支えられる実力記者なのである。

 山本さんは、とりわけシャンパーニュ生産者のインタヴューに執心があり、しばしば現地を訪れているのを知っていただけに、このテーマでの著作を心待ちにしていた。だが率直に言って、ターゲットや販売を意識しすぎたこのタイトルは、まったくいただけない。(できたら)毎日のようにシャンパーニュを飲む氏と私にとって、「死ぬまでに飲みたい」という釣り言葉(キャッチフレーズもどき)は、ちと情けない。まあ、出版社や編集者の陥りやすい罠なのだが、ここで妥協をしてはいけないのだ。

 タイトルに気落ちせずに「はじめに」に進むと、冒頭の一句がよい。いわく「まずいシャンパンが多すぎる。のっけから厳しいことを書くが、これは事実である」ときた。わが意を得た問題提起であって、内容に期待が出来そうである。にもかかわらず、本文に進むと、この「まずいシャンパンが多すぎる」理由の追求がいまいちなのだ。日本の特殊なシャンパーニュ市場(いわゆるナイト・マーケット)の説明は、新聞の社会面の記事のようだし、シャンパーニュの造り方で、NM型のブレンド方式をうのみにした説明は、突込みがなくていただけない。村別の格付け方式と味わいの特徴の章になって、ようやく著者の入れ込み具合が伝わってくる。シャンパーニュの購入と熟成にしても、著者の経験の裏打ちがあるから、説得力がある。

 ただ、なぜ、著者がフランスで買い求めることが多いかを、よろしく読者は考えるべきだろう。それが「まずいシャンパンが多すぎる」を解く鍵かも知れないのだから。30本を論じる最終章の出だしは、「まずいシャンパーニュにつきあえるほど、人生は長くない」。著者は本気にそう思っているのだ。なのに、このテーマが通奏低音のように本書を彩っていないのが残念である。つまるところ、筆力があるのに全体構成が弱いということになる。読者に残された楽しみは、著者の選んだ美味しそうなシャンパーニュについて想像の追体験をするだけでなく、著者が本当はどんなことが書きたかったのか、書けなかったかを想像することである、といったら皮肉すぎるだろうか。

 かくして、私の好きな内外のワイン・ジャーナリストについては、多少とも触れることができたが、私の好きなワイン・ライターについては、まだ書いていない。本命はむろん、麻井宇介さんであるが、氏の著作はそう簡単には片付けられない。というわけで、元気と時間があったら、『比較ワイン文化考』と、問題の『ワインづくりの思想』をじっくりと論じてみたいものである。

 ああ、またしても長くなりすぎて、お許しあれ。

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