ワインブックとワインライター

2008.6.25   塚原 正章

面白くて役に立つワイン情報を論じる

はじめに
 ともかく面白いワインブックが少ないという意味のことを、マット・クレイマー著『ワインがわかる』の訳者あとがきで、いとも率直に書いたことがある。あらためて引けば、「ワインブックがワインよりも楽しいことは、まず、ない。(…)とくに、この国にひしめくワイン書の多くは、部分的に参考になりこそすれ、知的刺戟にとぼしく、目(と舌)の肥えた読者にとってはモノ足りない、というのが訳者年来の持説なのである。(…)ワインという対象にもたれかかりすぎて、『ワインとは本来どういうものなのか』という、根本的な視点が不在なのと、事実の探り方(ファクト・ファインディング)が拙劣なせいである。」

 この思いは、今なお変わらない。一口にいえば、洋の東西を問わず、総じてワインに関する著作の質は、他の文化的なテーマに比べて高いとは思えず、とりわけこの国のワインに関する著述は、知的な意味で物足りないことが多い。それでは、知的刺戟にあふれた文章とはどういうものか、という議論から始めるとしよう。

1.思考を刺戟する文章とは
飯塚浩二さん(元・東大東洋文化研究所長。代表作『アジアのなかの日本』)は、オリジナルな発想と大胆な構想力の持ち主であった。氏は、面白い書物にたいする最高の讃辞として、よくプロヴォカティヴ“provocative” という形容詞を呈したとか。辞書によればこの単語は、刺戟的・挑発的とか、(好奇心や興味を)そそる、という意味である。とすれば飯塚さんは、《知的な刺激を受けて好奇心をそそられる》(“thought-provocative”)という肯定的な意味合いで、この形容詞を用いたのだろう。

 今日、知性とか教養という言葉ははやらないが、たとえばディドロとヒューム、林達夫と丸山真男といった知の世界を築き上げた大先達の文章をひもとけば、いやおうなしにプロヴォカティヴという言葉が実感をもって迫ってくる。現存の日本人評論家ならば、加藤周一、吉田秀和、丸谷才一の諸家の稿が、その形容にふさわしいといえる。たとえば加藤さんは、視野の広さと見通しに優れた、気骨あるインテレクチュアルだが、その日本文化論の総決算ともいうべき『日本美術の心と形』(平凡社ライブラリーおよびスタジオジブリ)では、知性と感性、しなやかさと剛性をそなえた論理が展開され、知的かつ刺戟的な味わいを堪能させてくれる。

文章―考える芸
 それでは、知性ではなく文章の側から見たとき、どういう文章が知的な刺戟を与えるのだろうか?私の答えは単純明快。考える過程そのものが論理的に文章化されたとき、知的な刺戟を生むのである。逆に、書き手が自分にとって既知のものごとを読者に予定調和風に説明しようとすれば、読者にとっては下手な授業もどうよう、退屈きわまる。キーワードは、「考えるプロセス」である。考えることは、すなわち問題を解くことであるが、著者がなにか問題を立てて、それを解決しようと考えをめぐらし、ときに発見へとたどりつくプロセスが麗しい文の形をとれば、現場感覚、つまり思考の現場に立ち会っているかのような実感、を読者に与える。いわば、スリルのある実況中継のようなもの。むろん、水中鉄カゴ脱け芸人のような技と、思考実験の流れを、いっしょくたにはできない。にしても、設定された問題や状況をうまく解決できるかどうかが、出発時に約束されているわけではない点では、カゴ脱け芸も思考作業も変わらない。

 ともあれ、読み手と共有する時間軸にそって、問題を思考によって解決してみせるという芸を、書き手は読者の前で演じなければならない。しかも、(ゴルディウムの結び目を断ち切ったアレクサンドロス大王のように)力技を振るうのではなく、巧みで美しい論理の構築と展開を保っていなければ、面白くない。だからして、「うまくいけばご喝采」の知的な芸当なのだ。

ワインと知性は無縁?
 古今の知的な大先達を敬愛し、身のほどしらずにも彼らの顰(ひそみ)に倣い、私淑したがる私は、よくプロヴォカティヴという言葉を使ったものだ。もっと正確にいえば、そういう形容に値するような素敵な本を博捜するのが趣味だった。けれども残念ながら、こちらの関心をそそる同時代の書 籍にはめったに出会わなかったため、学生時代から古今東西の古書を漁る日々に明け暮れた。結果、手元にある書籍は(数えたことはないが)たぶん数万冊に達し、書斎は古本屋の倉庫もどきの体で、未読の本がのさばり放題の惨状である。

 そこで、ようやくワインがからんでくる。まず、書庫に占めるワイン関係の単行本は、(S.ピープスの日記や伝記など)ワイン文化に間接的に遠くかかわる洋書を含めても千冊に足らず、全体のわずか1~2%程度しかない。それゆえ、ワインへの関心は、わが関心領域の数%にすぎない、とよく冗談のタネにする。ちなみに、個人的なワインのストックも千本にはるか及ばないが、これはワインの一大コレクションを作ろうという意欲と資力に欠け、求め次第に飲み干していったせいで、セラーの在庫本数は少なくて当然。ワインの出入りの記録(セラーブック)もまたつけていないが、書庫にはセインツベリー教授のサインが入った『セラーブックの注解』(初版・特装版)が鎮座している。まあ、ワインブックよりはワイン、ワインよりは書物が好きらしい(本当かいな?)。このうえワインまで増えてしまったら、人間の居場所がなくなってしまうが―これは事実―、だから毎日ワインのビンを空にしている、というのは嘘です。

2.東西のワインブック、あるいは翻訳の重要性と戦略について
 【要約】日本には、オリジナルなワイン情報の発信が少なく、海外情報に大きく依存している。その原因を探り、オリジナル情報を作り出すのに必要な情報の探索法として、長期のフィールドワークと頭脳的なインタヴューが欠かせない。日本人が情報探索に熟達していない現状では、良書を選びぬいて翻訳することが効果的だとしたら、その方法はなにか。翻訳の技術ではなくて戦略について触れ、ついでにわが翻訳人生を振りかえる。

1) 海外発情報の重要性と依存
 心中秘かにコズモポリタンと称する私は、およそ偏狭なナショナリズムが肌に合わず、「日本」という観念と怪しげな癒着関係にある「米と自民党と神道/天皇制」の三位一体とは合性が悪く、モノでも精神面でも国産品愛用運動のたぐいを苦手とする。だから、私は白米を敬遠して、自民党を白眼視する、(アメリカの政党名とは無関係に)共和主義に共鳴するリバタリアンなのである。

 グローバリズムではなく、インターナショナリズムの立場からして、情報流通の面で国の枠が事実上無くなったのは大歓迎だが、ワインとなると産地の障壁は一朝一夕に解消されることはない。なぜか近年、にわかに国産ワインがジャーナリズムからバランスを失するほど過大な評価を浴びているようだが、およそ日本はワインの生産と消費の両面において、少なくとも後進国であったため、その後遺症が強く残っていることは否定できまい。

 ワイン情報の分野でも、ワインと同じく、日本は一方的な輸入国であって、(ワイン漫画をワインブックでないとすれば)輸出国ではない。たとえば生産者/商品と業界の動向、有力ワイン評論家のスコアなど、広くワインにかかわる海外情報が、ライターやジャーナリストにとって主要な情報ソースであることは、いまもって変わらない。

 海外におけるワイン界の動向やニュースについてみると、情報の入手先としてインターネットを含めればなおのこと、オリジナルな情報は『ディカンター』『ワインスペクテイター』など、ほとんどが海外のニュースソースからの(引き写しまたは要約による)紹介であることが多い。海外の日本人ライター発のオリジナル情報は、特派員または通信員による一部の新聞記事を例外として、皆無にちかい(ただし近年、日本のワイン雑誌における海外の現地取材は厚みを増しており、昔日と同断ではないが、その内容と質については別途ふれよう)。

2)情報探索法

①フィールドワーク

 ワインブックについてみると、(翻訳の有無を問わず)欧米の原書そのものの水準と、邦語著作の水準を比べれば、概して前者に圧倒的な軍配が上がる。日本人の著作であるとしても、その参考または孫引きにした情報が海外発であることが多く、なかには盗作の疑いすらなしとしないものすら、過去にはあった。なぜ、そのような海外情報への依存や、(こっそり)引用とか「偽装」が多いのだろうか。

 その原因は、この国にワイン文化の蓄積がなかったという根本的な理由を別とすれば、ライター側におけるフィールドワーク不足と、例の既存情報依存症候群(自分で考えずにアリネタにすがり、情報を解決策と勘違いする日本的な現象)によるものと思われる。文化人類学で果たしているフィールドワークの役割と重要性を思い浮かべればわかるとおり、およそ調査においては対象地における長期滞在型の観察・分析・仮説の設定と検証が欠かせない。

 かのマット・クレイマーは、夫婦でピエモンテに住み着き、徹底的な試飲やヒヤリング調査をおこなって、(結果的にワインではなく料理中心の著作になってしまったが)『ピエモンテへの情熱』(“A Passion for Piedmont”)を著した。けれども、ワイン界で経験を積んだ有能な邦人ライターが、ワインの生産地に長期滞在して同様なリサーチをおこなった例は、寡聞にして知らない。通算すれば現地での滞在時間が比較的長い人にしても、基本的なワイン観と判断能力が備わっていなければ、試飲とヒヤリング情報の羅列に陥り、木を見て森を見ないたぐいの各論になりがち。海外に本拠地をおく日本人の場合にしても、仮にその本業ないしサイドビジネスがワインの売買や紹介にかかわっているとすれば、逆にそのビジネス・インタレストに左右されて、記述が利害関係先のワインや生産者に偏ったり、その評価が甘くなって歪む危険性が多いので、まずはご用心。

 ついでにいえば、プロのライターと評論家にとって理想的なテイスティングの方法は、現地(生産者のセラー、または産地から離れていない生産国内)で、コンディションのよいワインを選んで、試飲と愛飲を重ねることだろう。ちなみに㈱ラシーヌでは、現地で合田または塚原が試飲したフィールドワークの結果を評価基準としており、国内で流通しているワインの試飲はあくまで参考評価にとどめる。コンディションの良からぬワインを味わうとしたら、正しい評価と筋のよい経験にはならず、時間とお金の無駄づかいになることを懼れるからである。

②インタヴュー

 情報探索のさい、実地調査=フィールドワークと並ぶ重要な手段が、インタヴューである。この手法は、相手の選び方と訊ね方しだいではとても効果的である。近ごろとくに生産者インタヴューが多用されているが、インタヴュー記事とは単に相手の言い分をそのまま紹介することではない。インタヴュワーが生産者の代弁者となってしまっては、ミイラ取りがミイラになったようなもので、なんの意味もない。

 効果的にインタヴューをおこなうためには、まず、相手に尋ねるべきことが的を射ているかどうか、そして質問者の問題関心が事前によく整理されているかどうか、が重要である。が、もっと大切なのは、相手の発言内容を鵜呑みにしてひたすら納得することではなく、発言内容が事実であるかどうかである。なぜなら、インタヴューとは、質問という行為をつうじて、相手から発せられた言葉を手がかりにして事実に迫るという、まさしく知的な作業の一環なのであって、あえていえばファクト・ファインディングの一手段なのである。
 
 皮肉な言い方をすれば、インタヴューの際に人間観察に徹して人物像を探り、発想のパターンと資質を見極めることが肝心。人となりがわかれば誤解が減るだけでなく、発せられた言葉と事実との関係を占うことができるはずではないか。

 いずれにしても、言葉をたどるだけでは、事実が明らかにならない。先回も述べたとおり、生産者は故意または無意識の嘘をつきがちだとすれば、畑の様子と手入れ、セラーの設備・機材と作業法を自分で点検し、ワインをじっくり賞味して、言葉と事実の照応関係を確認する手間が不可欠である。くれぐれも、言葉(と笑顔)に騙されないよう、ご注意を。

3)良書は、フィールドワークとインタヴューの代役

 腰をすえたフィールドワークと、事実に迫る本格的なインタヴューの実施を組み合わせることが、種々の理由と条件で日本人ライターにとって難しいのならば、それを実際におこなって成功した著作を参照するにしくはない。ゆえに、徹底的な現地取材を論理的に整理分析した、優れたワインブックや記事を選びぬいて翻訳することが重要という結論になる。

 そこで、次に問題となるのは、「選びぬく」ということ。良書を選ぶには、どうしたらよいか。良いワインと同じで、すぐれた生産者、すなわち著者を選べばよい。ならば、どのようにして、優れた著者を選べるのか。まず、文章をつうじて、基本的な資質(人間性と論理化する能力)をまず見ること。これはトートロジーではない。さらに、ワインという分野で①正確でオリジナルな情報を入手し、発信しているか②著者に鋭いテイスティング能力があり、テイスティング結果を十分に言語化する表現力があるか、の2点を探る。日頃、文章から著者の人となりに迫るという訓練をしていれば、これは応用問題のようなものであって、インタヴューの項で説明したとおり、相手の人物を鑑評しながら言葉を通じて話されたことが事実であるかを探ることと、本質的には同じ作業である。

4)良書を翻訳するために

①訳者の資質

必要な資質は、まず日本語を理解し表現できるという基本的な能力。次に、ワインへの愛情と知識・経験。三番目が、外国語をよく解し、著者の文脈を論理的に追いながら意味を推測する力があること。4番目が、読解をすすめながら、著者と共鳴・共感関係を築き、著者に成り代わって日本語で文章を書く、という意識的な演技力。ここで俳優の比喩を持ち出せば、スタニスラフスキー流の俳優術(役との一体感を体現できたという誤解にもとづく「写実的」な演技。翻訳ならば、自分がいちばん著者/作品を理解していると自惚れ、読者に共感を迫るやり方)ではなく、ベルト・ブレヒト流ドラマツルギーにおける二律背反的な演技力(観客を感情的に魅惑し共感させながら、同時に批判的に考えるよう促すという、両極をそなえた演技)が必要である。したたかな戦略家ブレヒトの発想に立てば、著者の視点と読者の視点を併せ持つということだろう。自分の訳文に酔うような訳者は、著者役を演ずべき役者としては失格である。

 このように、ライターと翻訳家とでは、求められる資質が異なるが、共通する部分もある。それは、読者へのサーヴィス精神である。つまり、材料の鮮度、主張のオリジナリティ、明晰でわかりやすい文章、実用性への配慮などで、一言でいえば読者にとって「面白くてためになる」という大目的を忘れないことである。ライター稼業も翻訳業も、しょせんサーヴィス業なのである

②原書の選択

 ワインブックの翻訳家はつねに、自分が読んでためになるような書物と著者を探し、自分で書肆に翻訳を提案すること。出版社から持ち込まれた原書の翻訳を請け負うような根性では、原稿料稼ぎのアルバイトと変わらない。ワインの愛好家と業界がともに求めるような、革新的で興味深い書籍や記事は海外にいくらもあるはず。だとしたら、翻訳すべき本の選択に、訳者も出版社も真剣になるべきだろう。同じようなジャンル、似たようなテーマで書かれているとしても、実力のある欧米ワイン・ジャーナリストの文章の内容、取材力と水準は、国内ライターとは比べ物にならないことが多い。また、洋雑誌やインターネットでの書評は、参考になることが多いから、常に目を配っておいて損はない。

3.おまけ:訳者としてのわが歩み
 顧みれば20~40年前は、ワインに関する本に面白いものが少なく、知的な興味をそそるものなど、ほぼ皆無だった。私がワインに親しみはじめたのは、1960年代半ばの大学生時代で、当時ワインの参考文献など見当たらず、ワイン選びは試行錯誤を重ねるしかなかった。日本人によるワインの著作はほとんどなく、あったとしても海外の通説―それも時代遅れの―やエピソードの紹介とか、アペラシオン解説の域を出なかった。信頼できる翻訳書、つまり、コンテンツと翻訳がまともなワインブックはほぼ絶無であった。

 そのわずかな例外は、アレック・ウォーの『わいん』(原題“In Praise of Wine”、増野正衛訳・英宝社)くらい。英文学研究の泰斗・増野教授による注が丹念に付された瀟洒な体裁の本書は、実用性は物足りないとしても、文化の香り高い内容に興味深いエピソードを交えたハイブラウな読み物であって、貧乏学生のワインに対する憧れと渇を癒してくれた。読了して20年をへた後、老教授を食事に招いて訳者の労を謝し、イギリスの「セインツベリー・クラブ」(アンドレ・シモンが主宰)に招かれた思い出をお尋ねした覚えがあるが、それはまた別のおはなし。

 学窓を出て広告会社でマーケティングに携わるかたわら、私はいっそうワインに魅せられ、ワインの基本文献と稀購本を海外から取り寄せるという書痴ぶりであった。縁あってワイン翻訳書の校正と訳文チェックを手伝ったが、しょせん他人の訳文をいじることには限界がある。優れたワインブックが日本になければ、自分で良書を探し出して翻訳するにしかず(これはワインそのものについても同じ発想で、飲みたいコンディションのよいワインが身近になければ、自分でインポーターの仕事をするしかない)。というわけで、ロバート・パーカーの『ブルゴーニュ』以下の、共訳または単独訳が生まれた次第。

 参考までに、全訳した本の著者名だけを羅列すれば、ロバート・パーカー、マット・クレイマー、ジェラルド・アシャー、ジャンシス・ロビンソン(2冊)、バートン・アンダーソンなど。ワインライター界の巨人(パーカーとアンダーソン)、名文家(アシャー)、頭脳(クレイマーとロビンソン)を網羅したような陣立てだが、いずれ劣らぬ「プロヴォカティヴ」な原作は、訳業こそ骨が折れたが、学ぶところも大であった。

 そのほか、雑誌『ワイン王国』のために、提案したテーマにそって海外の一流ワインライターに原稿を委嘱し、翻訳したこともあった(クレイマー、アンダーソン、マイケル・エドワーズ)。

 だが、翻訳と校正で視力が著しく落ちてしまったし、インポーター稼業が多忙をきわめるため、(関係者にご迷惑をおかけしたが)すっかり翻訳界から遠ざかってしまった。現在、翻訳は本業に直接かかわる範囲にとどめ、日常的には仕事仲間の訳文チェックをし、あるいは邦文原稿か英文のレター書きにいそしむといった具合で、本格的な翻訳・執筆は二の次になってしまった。

4.好きなワインライター
①訳本の著者たち

 自分で選んだ著者と作品であるだけに、これらの著者がひとしく我が贔屓筋であること、論を待たない。わけてもクレイマーは、論理的な頭脳でものごとを再構成し、オリジナルな考え方を説得的に展開できる人物であるだけに、知性派好みの私は筆頭に挙げざるをえない。同氏にはアスティで偶然お目にかかり、にわか仕込みのインタヴューに取り掛かったこともあるが、理路整然とした答え方は、まるで整った文章を読むという趣があった。著作は“provocative”の一語に尽きる。

ストーリーテラーとして卓越した文章力を誇るアシャーについては、こちらが好きなテーマの記事だけを選んで『月刊プレイボーイ』誌に訳を載せた(のちに文庫化した)だけに、楽しい思い出が多い。「静かなアメリカ人」ことバートン・アンダーソンは、何回かイタリアワインについて現地で教示いただいたこともあり、勝手にわが師匠筋と呼ぶことにしている。その深い見識に脱帽。

 ジャンシスが頭脳明晰なこと説明不要であって、体系的に理解し無駄なく正確に表現する力量については、業界随一。やや優等生的なところ無きにしもあらずだが、『オクスフォード版ワイン事典』はすべてのワイン人必携だし、“fine writing on fine wines”という自画自賛的なサブタイトルをつけたホームページ“jancisrobinson.com”は、最新情報の宝庫である。有料会員になって、会員制のパープル・ページを閲覧することをお勧めしたい。

 パーカーは文章が実用一点張りで華はないが、誠実な人柄で味覚の判断基準がブレないこと、無類である。ニューズレターとしては、執筆陣が強化された『ワイン・アドヴォケイト』は信頼性をまし、スティーヴン・タンザーの“International Wine Cellar”とともに、いまなお健在である(が、両社とも個別ワインの評価とスコアーが中心のため、私はほとんど参考にしたことがない)。

 マイケル・エドワーズは、地味な人柄の「静かなイギリス人」だが、鋭い味覚に基づいてワインの的確な位置づけができる。その意味ではまさしくプロ中のプロであって、書き手仲間からは敬意を払われている存在である。

②名文家、レイとジョンソン
 ワイン界きっての名文家といえば、イギリスの故シリル・レイの優雅でユーモラスな文章にとどめをさす。が、この人、もともと文名の高い新聞人であったから、文に華があって当然というもの。現在のワインライター諸氏の作と比べれば、たとえばイタリアワインに関する単行本など、素人的ですらあるが、当時のイギリスの受けとめ方が如実にわかる資料となっている。代表作は、アイザック・ウォールトンの『釣魚大全』をもじったタイトルの編著“Compleat Imbiber”(12巻)。良き時代の名残りをただよわせる優雅な装丁は、成熟したイギリスワイン文化の証である。

 現役ライターで、知的で気の利いた文章家としては、ヒュー・ジョンソンに及ぶものはない。さりげない表現に教養の裏打ちがあるから読み手は油断できないが、謎解きのような面白さもある。それにしても、氏のエディターシップ(編集企画力)には恐れ入るばかりで、事業家として成功する道理である。

 北米で、私の好きなワインライターは、先年物故したロスアンジェルス・タイムズ紙の名物ワインライターで、美食家としても令名が高かったデイヴィッド・ショー。本業のジャーナリズムではピューリツァー賞を受賞した骨のある記者だったが、まことに惜しいことをした。

ワイン・ジャーナリストの雄、エリック・アシモフ
 アメリカの若き新聞人では、エリック・アシモフに注目(よく似た名前の、エリオット・アシノフというベースボール・ライターと混同しないよう。こちらはまた、スポーツ界と金銭のつながりを暴いた気骨のあるライターであったが、つい先ごろ物故した)。

 2004年以来、ニューヨーク・タイムズ紙の主席ワイン評論家として、“The Pour”(注:液体を注ぐこと、流れの意味)というコラムを担当し、広くワイン界の出来事について縦横無尽の健筆を振るう。が、もともと同紙で『25ドル以下のレストラン・レヴュー』(’92~)や、『2004年版NYTレストラン・ガイド』の執筆にかかわっていたアシモフは、レストラン批評家としての経歴が長く、生活まわり全般に視野が広いジャーナリストである。

 彼の文章に接して感心するのは、見識の高さと文章力だけではない。むろん、どこかの国のライターやブロガーとは違って、背後に怪しげな目論見や、知識をひけらかすような浅はかな素振りはみじんもない。つまり、文章に気品があって、ジャーナリスト気質にとみ、味覚もよろしいから(たとえば、カーゼ・バッセの《ソルデラ1998》を、強烈かつデリケートで最上のブルネッロに属すと評して愛飲する)、ワインライターの本流に位置づけられる人物である。

 多岐に渡る彼のエッセイは、最近の事件(ブルネッロ騒動など)はむろんのこと、ブドウ品種(ソーヴィニョン・ブラン、ジンファンデル)、ワイン用語論(「『快楽の塊』なんて、無用」と題するパーカー流の形容詞批判)、ワインブックの書評から、偉大なワイン人の紹介と追悼、さてはレストランのエピソード(モモフクのコルク臭ハム事件とその後日談)までをカバー。もちろん、各地の代表的なアペラシオンと各種ビール/スピリッツを具体的に論じることも忘れない。

 彼のブログのリンク先の選び方がまた行き届いているから、情報の詮索好きな読者にとって絶好のソースとなること、請け合いである。という具合だから、現在の私にとってワイン・ジャーナリストのアシモフは、インターネットにおける情報源のベストである。ここで、アシモフの記事だけでなく、すべての記事を公開しているニューヨーク・タイムズ紙に、賛辞を呈してもおこう。たとえば、「旅行」ジャンルでは、リチャード・ウッドウォード担当の「アームチェア・トラヴェラー」(肘掛け椅子の旅行者)というコラム。旅行ガイドブックの辛口書評など、読書と旅行がともに好きな人にはこたえられない……と、書き出せばきりがないから、ここらでやめておく。

 好きな日本人ライターについては、またしても次回(以降)のテーマとさせていただこう。

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