ワインライターの役割

2008.5.1   塚原 正章

ワイン・ライターは業界の寄生虫か?
 のっけから物騒な小見出しで恐縮ながら、海外のワイン・ジャーナリズムやブログで話題となっているのに、この国の特殊事情(ことなかれ主義の蔓延と、ワイン・ジャーナリズムの未成熟)ゆえにあまり紹介されていない話題なので、あえて取り上げた次第。こちらもせいぜい、羊頭狗肉にならないよう、心掛けるとしよう。

 さて、今春スペインはアンダルシアのロンダで、ホセ・ペニンを名誉議長として、著名なワインメーカー(A.パラシオス、P.シセック、P.ドレイパー、D.ドゥブルデューなど)やワイン・ライター(J.ロビンソン、M.ベタンヌ、D.シルトクネヒトら)が一堂に会した。スポンサー筋である国際的なワイン投資家グループが、ラ・メロネラにある開発途上畑に招いたワインメーカーの名前を、あからさまにPRに利用しようとしたフシがあって、後日参加者の間で不信を招くという一幕があったが、それは余談。

そのオープニング・スピーチでジャンシス・ロビンソンが発言した内容が、オンライン版『ディカンター』の最新ニュース欄で報じられた。が、その内容がジャンシスの発言の文脈を無視したものとして、ジャンシスのホームページで各氏から非難が寄せられた。問題のニュースは題して、

 《ジャンシス・ロビンソン、『(ワイン)評論家はもっと謙虚であるべきだ』と発言》

というもの。本文冒頭のパラグラフは、

 《ワイン評論家のジャンシス・ロビンソンMW(マスター・オヴ・ワイン)は、ワイン評論家を『寄生虫』と呼び、彼らにもっと謙虚で誠実であるよう求めた》

という、いささかショッキングな報道であった。だが、実際のスピーチのなかでジャンシスは、『オクスフォード版ワイン事典』で14年前にみずから執筆した項目「ワイン・ライティング」の記述を紹介したついでに、謙虚さはワインのコメンテイターにとって必要な資質である、という当たり前のことに触れたに過ぎなかった。のに、居合わせた『ディカンター』の女性記者は、それら2点をつなげて、人目を引くような記事に仕立てて、ジャンシスを血祭りに上げようとしたのだと、ジャンシスは憤慨する。

項目「ワインについて書くこと」(『ワイン事典』より)
 ならば、まず、ジャンシスが事典に寄せた「ワイン・ライティング」の内容を点検してみよう。

 《ワインについて書くことは、ワイン・ライターがおこなう一種の寄生的な行為(a parasitical activity)であって、ブドウ栽培とワイン醸造があってはじめて可能になるものだが、栽培・醸造よりも、通常はワイン・テイスティングやワイン・ドリンキングとのつながりがより深い(職業である)》

 と、ジャンシスは慎重な書き方をしている。そのうえ、最近のワイン・ライティングは単行本よりも、ウェブサイトや専門誌、ニューズレターや、一般紙などに見られるとしたあと、主要各国の状況と動きを例によって要領よく概観する。そして結語は、

 《近年、バイヤーズ・ガイド(典型的には各年版が刊行される)のたぐいが花盛りで、ワインに費やされる言葉は、読み物からますますショッピング・リストの体裁に近づく。今日、読者はより分かりやすいアドヴァイスを求め、しばしば評価点(スコアー)を無上にもてはやす観がある。ワイン・ライティングは、ほとんどワイン・テイスティングと化しているといっても過言ではない》

 さすがにジャンシスらしい要を得た見取り図であるが、「寄生的」という挑発になりかねない形容詞は、引用したとおり冒頭に一回しか登場しない。問題は寄生的な行動の有無と程度だが、ジャンシスは別の文章のなかでも、価値判断抜きのニュートラルな事実として、ワイン業界(特に生産者=主)とワインライター(従)の相互依存関係を述べているのだ。

フリー・ランチと取材費などのことども
 たしかに、生産者や大手ワインショップ・チェーンなどが、ライターをフリー・ランチつきのテイスティングに招くのは、欧米では常道化しているらしい。日本でも、一部のレストラン評論家が店に食事代を払わないとして、癒着関係が疑われたり、店側の媚びた態度が追及されたりしているが、取材ならば取材費(つまり食事代)を仕払うのは当然のこと。だが、出版社側が、レストラン評論(ないし紹介)の記事作成にたいして相応の取材費を支払わずに、(安い)原稿料だけで済ませようとする安易な傾向もなしとしない。だから、書き手のほうも、同じ店を別の詩誌で取り上げる(つまり、使い回しをする)傾向がうまれ、どこでも似たような記事にお目にかかるハメになる。なにしろ、レストラン取材のための食費が重なると、馬鹿にならないのだから。もっとも、逆に、食事代さえ払えば、自分のブログなどに好き勝手なことを書いてよいわけではなかろう。書くことには責任が伴うと知るべきである。

 いやはや、なんともケチ臭い話になったが、寄生的な行為に問題があるとしたら、書き手が自立せず、自己規律を放棄して、ワイン/レストラン業者側にゴマを摺ることだろう。雑誌によっては、インポーターが広告出稿することを前提として、その取引先を取材し記事化することがあるとか。記事にする価値が見込まれるのならば、自費で取材すればよいわけで、情けないの一語につきる。企業側の(虫のよい)パブリシティ企画に、書き手や媒体側が乗るかどうかは自由だが、少なくとも書く側は自分の見方や主張を貫いて欲しいものである。だって、それがジャーナリズムが自由を守るための手段なのだから。もっとも、書き手は必ずしもジャーナリストだと思っているわけではなくて、自分を「テクニカル・ライター」、つまり専門的な分野について原稿料と引き換えに書くことを職業とするプロだと位置づけている方もいるから、コピーライターとの区別がつきにくい。だからして、自主取材記事と有料広告記事(ペイド・パブ)の差が、読者には分かりにくいわけで、記事と広告は截然と分けるのが、媒体側の責務である。

項目「ワイン・ライター」では?
 さて、話をジャンシスとワイン・ライティングに戻せば、『ワイン事典』の読者は、同じ執筆者の手になる「ワイン・ライター」の項目を併せ読んで、ジャンシスの全体的な見方を探るべきだろう。なぜなら、やはり、冒頭の定義と要約が有意義で面白いから。すなわち、

 《ワイン・ライターなる言葉は、ワインという主題について、多様なメディアでもってコミュニケイトするすべての人々を指す。「ワイン評論家」と自称する者もいれば(著名人では、ロバート・パーカー)、ヒュー・ジョンソンやジェラルド・アシャーのように文学的なスタイルないし文体を持った、まぎれもないワイン・ライター(ワイン作家)もいる。》

 《(中略)ワインについて書く機会が1980年代初頭から急増してきたため、たぶん史上初のことなのだが、幸運に恵まれ精励を続ければ、他に収入源がなくてもワインライターとして自活することが可能になった(引用者・注:成功者の代表格は、いうまでもなくヒュー・ジョンソン。活動領域は執筆・編集にとどまらず、ワインとワイングッズの製造販売に手を染め、BAの機内用ワインを選び、城館を入手し、サーの称号を受けた)。とはいえ、ワイン・ライティングという仕事が楽しみに満ち、経済的におおいに報われると期待するとしたら、実情にそぐわない。事実、本業と危険なほど密接な領域、たとえばワイン貿易からの収入や、ワイン会社から一定のコミッションを受け取って糊口をしのいでいるワインライターが多い……。》

 以下、具体的なライターの名前を挙げて、その出自(元の職業)を明かしたり、欧米における女性ワイン・ライターのあり方に触れるなど、事典の域をこえた読み応えのある解説になっているから、興味のある方は続きをご覧あれ。

ライターの役割、あるいは寄生について
 ワインの業界とライターの関係を、映画・演劇と映画・演劇批評家の関係になぞらえて、ワイン・ライターの必要性と役割を原則的に擁護するむきもある。が、問題とすべきは、ライターの記事が事実と最新の状況を誤りなく伝え、かつ、消費者の実用的な判断に役立つ情報を提供しているかどうかである。

 別の例をとろう。海外旅行(というよりも出張)の際、私は海外で出版されたガイドブックと地図を常に参考にし、ルート・宿泊・食事・買い物・文化催事などの面で、日常的に恩恵をこうむっている。なぜなら、最上のガイドブックはいわば文化的な産物であって、大げさに言えば過去の旅行者と現地の住民の叡智が結集されている。たとえば、主要都市別になっている“Penguin”出版の“Time Out”シリーズと、“Streetwise Mao Inc”から出ている薄手の小型地図など。

 このように私は、常に海外で最上の信頼できるガイドブックと正確な地図を探すことにしていて、情報コスト、つまり情報収集のための時間と費用を惜しまないことにしている。そのコツは、自分の好みや趣味にあう情報と、すぐれた判断力の証しを提供してくれるかどうか、ということ。つまり、料理やワインの鑑定と同じで、批評家としての判断基準が明確で、個人的な意見とセンスに貫かれ、文章が簡潔的確であるかどうかだ。批評は、対象を取り上げる基準と具体的な鑑定・評価の手続きにかかっている。

フレッド・プロトキンを讃える
 なみに、イタリアのレストラン案内ならば、ガンベロ・ロッソかミシュランの名がよく挙がる。けれどもわたしにとっては、フレッド・プロトキンの個性的な“Italy:for the gourmet traveler”(第2版)に勝るものはない。そもそもこの名レストラン・ガイドの文章に出会ったのは、10年以上も前のこと。雑誌“Gourmet”で、「冬のヴェニス」と題する情報ゆたかな記事を見かけ、それを頼りにしてヴェネツィアの町中をさまよい歩いたものだが、まことに益するところ大であった。その記事のお勧めに従って、ヴェネツィアのさるトラットリーアで軽食にありついていたら、奇しくも同じ雑誌を片手に食事をしている旅行者を見かけ、柄にもなく「あなたも?」などと思わず尋ねてしまった。記事の内容と文章に惹かれはしたものの、うっかり著者の名前を失念していたところ、イタリア好きなアメリカのワイン人から、『イタリア』(初版)を激賞され、ようやく執筆者の名を思い出したという次第。フレッドは、レストラン/食事やパスタ料理に関する個性的な著作があるだけでなく、フリウーリの文化についても大著を世に問うたが、その本業はニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の演技指導主任であるらしいから、文化的な素養がしのばれる。

 ま、ことほど左様に、欧米には私にとって有益なガイドブックや参考書があるのだが、ことワインに関しては、意外に良書は少ないと感じている。ようやく本論に近づいてきたのだが……

理想的なワイン・ライターはだれか?(次回のお楽しみ)
 つい、脱線に次ぐ脱線になってしまって、私が考える理想的なワイン・ライターについて書く余裕がなくなってしまった。このテーマは次回にとっておくとして、今月はこれまでとしよう。チャオ、トゥッティ!

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