テロワールは「風土の気」

2008.5.1   塚原 正章

まず気になるものは
 春は気の病が多いというが、なぜか「気」が気にかかるこの頃である。気は目に見えないし、そもそも気とはなにかわかりづらく、定義もしにくい。にもかかわらず、気の本場である中国における最近の研究では、気が実在するとされ、気功による手術や実験情報が広まった。たとえば、「気」が当てられた人体の部位の温度が上がることが肌の温度分布図で確認されたり、「気」による無痛手術が中国でおこなわれている。ヨーロッパでも、経絡理論に基づく中国式医療(中医)の認識が高まるとともに、気功だけでなく気に対する関心も高まってきたようである。
 やや堅苦しい話をすれば、古代中国では陰陽二元論の考え方が一般的であったが、近世中国の支配的な(政治)思想体系であった朱子学では、世界の根本原理は「理」と「気」からなり、理は普遍的な契機、気は特殊個性的な契機とされる。理と気がさまざまにミックスされて万物がうまれ、人間社会が構成されるというわけ。昔この説に触れたとき、気は分析のための道具、つまり抽象的な説明概念だと思っていたが、気の効用が説かれ、実在説が濃厚になるにつれて、私の見方も変わってきた。

気の効用
 そのきっかけは、大東流合気武術の故・佐川幸義氏に関する何冊かの著述。合気道ならば昔から身近な存在であって、たとえば道場で小柄な植芝盛平翁を見かけたこともあるし、合気道に親しんでいた友人もいた。が、佐川氏の流儀では特に、合気という気の働かせ方が、体の動かし方と一体になって、未曾有の武術になっているらしいのだ。

 この佐川氏が練習で相手を跳ね飛ばす光景の写真をO-リング法で分析した豊岡憲二医師は、電極のNとSの比喩を持ちだして、佐川氏は瞬間的に対戦相手と同じ磁性体になって相手を無力化し、跳ね飛ばすという新説を編みだした。これは、佐川氏が気の流れをコントロールして自分のNとSを逆転した、という魅力的な解釈である。ちなみに、O‐リング理論を築いてアメリカで特許を得た大村恵昭教授は、中国人の気功士が気を飛ばす様をみて独習し、自分の気を操ることに成功したし、大村教授の弟子筋に当たる豊岡医師もまた、気の効果的な利用法を治療に役立てていた。いずれにしろ、気が実在することをうかがわせる傍証は山のようにあるが、これを力説すると気が変になったと思われそうだから、この辺で気そのものの話はおしまいで、ワインの話に移ろう。

テロワールは実在するか?
 テロワールとは、ワインに映し出された風土の個性である、というのが、私たちの年来の説である。この考え方は、テロワールそのものが実在し、とりわけ大地(テラン)のなかに含まれている、という通説とはやや異なる。後者のテロワール=客観的実在説は、ともすると風土の物理・化学的な構造や組成に寄りかかりがちで、「アペラシオン」の言い換えになりかねない。とりわけ、フランスの生産者は、アペラシオン至上主義(すぐれたアペラシオンはフランスにしかないという独善的な考え方)が他の生産地で評判が悪いため、テロワール(これなら各国・各地にありうる)という用語を使うようになった気配がある。が、内心フランス人生産者の多くは、テロワールもアペラシオンと同じく土地に固有であるが、ただ公的な認証や規定がないだけで、好印象を生む便利な言葉であると思っているのだろう。

 問題は、アペラシオンはあくまで、可能性に留まるということ。つまり、可能性を実現するのは、いうまでもなく個々の生産者であって、上級アペラシオンのワインが必ずしも、上質なワインとは限らないことはご存じのとおり。というよりむしろ、上級アペラシオンの生産者はえてして、売りやすいアペラシオンの名に安住して努力を怠る結果、優れたワインが少ない、という嘆かわしい現象すら見られる。テロワールもまた、可能性に留まるわけで、なにがテロワールかは判然としないところが、生産者にとっては都合のいい説明概念なのかもしれない。要するに、見える者には見えるし、感じる人には感じとれるのが、テロワールである。とすれば、ワインの中に体現されていてはじめて、テロワールが感じとれることになって、抽象的なテロワールなるモノが存在するわけではあるまい。

テロワールは風土の気
 最近の私は、テロワールとは「風土の気である」と個人的に思っている。風土に気が内在しているとしても、その気をどのようにして、ブドウとワインに閉じ込めるのか? それが生産者の使命であるが、そのための必要条件は、畑におけるビオロジック、またはバイオダイナミックな農法であろう。自然との共生という現代的なテーマが、ワインにおいてはいっそう求められており、化学的な添加物(殺菌剤・殺虫剤・除草剤などの薬品や合成肥料など)が、自然のエコシステムを破壊することは事新しくいうまでもない。ジャンシス・ロビンソンによれば、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ=コンティもつい最近(2008年2月)、ついに全面的にバイオダイナミックに転じたとか。この点では、マダム・ルロワに先見の明があったことになる。

 健全な農業がテロワールの特徴をブドウ果の中に閉じ込めおおせたあとは、造り手の考え方と臨機応変な対応能力がものをいうが、ここでもまた「ミニマム・インタヴェンション」、つまりは余計な人為的な手出しを控えることを原則にし、自然環境と響きあうセラーのなかで発酵以下のプロセスが進むことが望ましい。むろん、SO2の多用や培養酵母の添加などのあらゆる近代的な加工処理が、ワインという生きた存在を歪め、はなはだしく個性を損なうこと、いうまでもない。そこでもし、それぞれのクリマ(微小風土)に生きた個性(すなわち気)があるとすれば、ワインに造形的な加工をしない上手な造り手は、ワインの中に風土に特有の生きた気(すなわち生気)を閉じ込めることもまた、可能ということになる。あげく、人は「風土の気」ともいうべきテロワールを感得し、ゆくりなく楽しめるという次第。

もしかしたら、鋭敏なボードレールの詩にうたわれた「ワインのビンの中の歌声」とは、風土の気の囁きだったのかもしれない。

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