書き手からの御案内と予告:
【はじめに】
  久しぶりにエッセイを書いてみよう、という気分になりました。かつての勤め先仲間であった藤原伊織が世を去ったことも、少しは影響しているのかもしれません。といっても、書き残すというほど大袈裟ではなくて、これまで伝え切れなかったことや私的な感想などを、記しておくまでのこと。だからして、《ラシーヌからの公式発言》という性格のものではまったくなくて、あくまで塚原の私的な思いや個人的な発信であると、お考えください。したがって、触れることがらは、必ずしもワイン&フードに限らず、書物や音楽、時勢や人物論など、さまざま。要するに雑多でしょうから、つまりは雑感にすぎません。文体(があるとして)も話題しだいで、統一など覚束そうにありません。まあ、あまり肩に力をいれずに始めるつもりです。が、とりあえず初回だけはラシーヌの現況と今後のあり方という、やや硬い話になってしまいますので、ご面倒ながらお付き合いを願います。


(1) 偶感-ラシーヌの覚悟―

2007.6.8   塚原 正章

【ラシーヌの出発点と仮説】
  合田泰子とともに、はからずも(株)ラシーヌというワインの輸入卸売業を創めることになってから、いつのまにか満4年が過ぎました。ご存じのとおりラシーヌは、ワインバイヤーの合田と、マーケティング/著述翻訳業に携わってきた塚原という持ち場を異にする二人が、よろず相談しながら運営しています。私たちはこの20年というもの、ワインとワインビジネスのあり方について議論(と杯)をかさねながら思いをこらし、協力しあってきました。出発点は、「世界には官能をゆさぶるような素敵なワインがあるはずなのに、どうしてこの国になかなか見当たらないのだろうか」という、素朴な疑問でした。そこで謎を解くため、自己流の情報分析と系統的なテイスティングをはじめた次第。こういう手探りのフィールドワークをするときの準備仮説は、《ワインの世界では、人間を媒介にする、ワイン(ハードウェア)と情報(ソフトウェア)の最適な組み合わせが効果的であり、不可欠である》、というものでした。つまりは、この3要素のそれぞれが充実して、かつバランスがとれていることが、ビジネスと市場育成の必要条件であろうということになります。

【日本の「ワイン革命」】
 こういう仮説とフィールドワークにしたがいながら、私たちが紹介してきたワイン(たとえばレコルタン・マニピュランのシャンパーニュや、各地の自然派ワイン)と、ワイン情報(ロバート・パーカーの『バーガンディ』や、ジェラルド・アシャーの『世界一優雅なワイン選び』など)が、近時における「日本のワイン革命」において、いささかその一端を担ったのかもしれません。日本のワインの流通・販売・消費と消費者自身が徐々に変容していくさまを間近に見て、今では私たちの仮説は、信念に変わってきました。でも、最終的に一番大切なのは、ワインと情報を扱う人間自身かもしれない、と実感しています。

【ラシーヌの使命】
 大げさに言えば(株)ラシーヌは、二人のこういう共同作業のささやかな総決算(というよりは中間決算のようなもの)ということになります。その使命は、《ワインは名声・評価や規模を追わずに味わいと実質を求め、よいコンディションで需要家にお届けすること》。生産者とお客様のどちらにも、ラシーヌの理念と実態をできるだけ理解し、共感していただくように努めながら、最終的に飲み手をハッピーにするだけでなく、ビジネスとしても採算が成り立つ――という単純な、あるいは欲の深い図式を、ラシーヌでは思い描いてきました。が、今にして思えば、やや反時代的で大胆にすぎる試みだったかもしれません。

【小さな杯、小さなビジネス】
 アルフレッド・ミュッセに「私の杯は小さい。けれども、私はこの杯で飲む」という素敵な言葉があって、学生時代から私は図々しくも座右の銘にしています(骨格の優れたワインには大きなグラスのほうが良いようですが、これについては別の機会に触れましょう)。ミュッセの言葉はマイナー・ポウエト(小詩人)宣言のようなものですが、ラシーヌ(大劇詩人の名ではありません)もまた、同じ精神でもって「小さなワイン・ビジネス」にこだわり続けてきました。むろん、今後も妥協せずに、しかし楽しみながら、これを追い求めるつもりです。

【変化は必然】
 さて、私たちのラシーヌは、同じところに留まっているつもりはなく、常に変わっていきます(むろん、私たちもスタッフもスタッフの構成もまた、変わらなくてはいけませんが、これは余談)。より正確に言えば、同じところに居続けようとしたら、変わり続けなくてはいけないということでしょうか。川の流れに逆らって定位置を確保するためには、常に上流に向かって流速と同じスピードで泳ぎ続けないといけないのと、同じ理由です。ただし、私たちは上流志向とは無縁ですが。

【生産者さまざま(さまさま)】
 いっても、これまでと同じスピードで優れた生産者を「開発」(じつに身勝手な言葉で申し訳ありませんが)していく、というわけでは必ずしもありません。おおかたの新規取り扱い生産者は、おかげさまで各方面からご注目いただいています。その点では、まことに開発者冥利に尽きますし、お客様からの期待と関心が高いのも事実ですが、その部門だけが突出してラシーヌの核になっているわけではありません。もしも新規開発した生産者が無制限に増え続けるとしたら、扱いリストは拡大して構成のバランスが崩れるだけでなく、関心を引きがちな新規扱いワインだけがよく動くという、インポーターとしてはいびつなビジネス構造になりかねない。そのため、仕入れサイドしては「新規」偏重を避けつつ、開発にともなって扱い生産者リストを入れ替えする、という荒業がときに必要になるわけで、頭を悩ませることがあります。

 ラシーヌのリストには、また超個性的な生産者が名を連ねており、幸いそれぞれにひいき筋のお客様がいらっしゃいます。また、特別な宣伝やご案内はしないにもかかわらず、年々のご注文が増えて供給が追いつかないワインをこしらえる生産者があります。その意味で彼らは、私たちのような非力なインポーターにとって優等生のような有難い存在であり、感謝しなければなりません。

 それ以外に、目立ちにくいけれどもラシーヌの扱いリストで定位置を確保している、いわば実力のある生産者が、少なからず控えております。彼らは、大向こうを唸らせるようなパフォーマンスは苦手でワインは地味なスタイルだけれども、決して飲み飽きないスタイルの作を年々送り出しています。しかも、ときには、年々ワイン造りの腕を上げながら。そういうワインであるだけに、料理にはかえってよく合うという名脇役ぶりを発揮する、感心なワインなのです。あえて、ここで生産者の名前を挙げませんが、思い当たる方もいらっしゃるでしょう。

【モデスティ、あるいは神経の恢復について】
 ところで、「控えめ」は現代ではあまり見かけない徳目ですが、こういう慎ましやかながら底力のある生産者や人物とは、末永く友人のように付き合いたいものです。逆に、人目を引くパフォーマンスに長けたり、自己主張だけが強すぎて周りとの融和を拒否するようなワイン(と人間)は、個人的には御免被りたいものです。

 人間と同じく、神経質なワインというのもあって、フランス語ではともに「ネルヴー」nerveuxと形容するようです。ちなみに神経質な人物はえてして、自分のことだけに神経過敏になるのはまあ仕方がないとしても、周りの人やものごとへの気遣いや配慮が不足しがちで、ともすれば攻撃的ではた迷惑な存在になりやすい。ひるがえって、白ワインにありがちな神経質なワインはといえば、飲んでいて快い心地になれず、ワインにいやおうなくつき合わされる、という主客転倒の状態になってしまいます。

 ラシーヌには、こういうワイン(と人間)があってはならないのですが、加齢熟成によっても神経質が治まらず恢復の見通しがないばあいは、たとえ評価が高くても、縁を切らざるを得なくなります。ラシーヌは基本的にサーヴィス業であって、ラシーヌの扱いワインともども、お客様と飲み手を「ハッピー」にするお手伝いをするのが本務です。この原点に立ち返って、人間もワインも慢心してはいけない、と自戒している今日このごろです。

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