合田 玲英のフィールド・ノート

2013.9    合田玲英

1.《 ジーノ・ペドロッティ 》 (トレンティーノ)  訪問記

 2012年は、ジーノの父親であるジュゼッペ(息子と同じ名前)が、この地へ移ってワイナリーを立ち上げてからちょうど100年にあたります。 カヴェディネ湖のほとりのピエトラムラートは、岩山に挟まれた谷にある美しい場所で、とても澄んだ川が、谷間をゆっくりと流れており、創始者のジュゼッペは一目で気に入り、家とセラーを建て、その周りにブドウを植えたそうです。

 この地でペドロッティ家は現在も家族のみでワイナリーとバーを営んでいます。当主ジーノの息子ジュゼッペが、主に畑の管理と醸造を、クララとお母さんがバーを担当。お父さんのジーノは、主に家の周りの畑で今でもブドウの手入れをしています。三人兄弟の末っ子のジュゼッペが39歳なので、ジーノは70歳過ぎでしょうか。長女は結婚して近くの町に住んでいるようです。

 いつ頃から以前の農法を変えたかを聞き損ねましたが、彼らはもっと良質なブドウ作りを考えたあげく、バイオダ イナミック農法と出会いました。それからは、一直線。共感できる生産者たちとコミュニケーションを取り、情報交換をしています。畑には現在、様々なハーブや草花が刈り取られずに広がっています。ブドウが熟しはじめる頃には刈り取ってしまいますが、「父(ジーノ)はいつでも全部きれいに刈り取ってしまいたいんだよ。でも絶対にダメだって言っているんだ」とジュゼッペは笑っていました。

 自然な農法にしてからは、病気に対してブドウが強くなったという実感があるとか。それでもさすがに今年は本当に難しい年らしく、雨があまりにも多くて、常に気が抜けないとのことです。 訪問した7月1日は温かかったのですが、その1週間前に届いたメールには嵐と寒さで畑は大変だと書いてありました。ちなみに、アルト・アディジェ州の特産品でもあるリンゴは被害甚大で、売り物になるリンゴがほとんどない状況だそうです。この地域はまた、害虫も多く、ブドウの新芽が出る頃、毎晩暗くなった後に、懐中電灯をつけて、夜行性の蛾の幼虫を取り除きに来なければいけないとも言っていました。

 夕方、僕がそろそろ帰りかける間際から、トラクターでの銅の散布に行くジュゼッペ。暑い日中は外での 仕事を避け、セラー内での仕事と休憩にあて、日没前から夕暮れ時に畑で作業をする。またその方が、散布する銅液などもよく効くのだとか。なぜなら、ブドウは日光を必要ともするけれど、日中の強い日差しに耐えるためには、余計な蒸発を防いで内部の水分を保つ作用が働くが、陽光がおさまれば薬液が浸透していくからだそうです。せっかくの昼の休憩時間に、何時間も割いてくれました。




いいノズィオラが育つためには、岩がちで、地表近い部分に土や砂が少ない所が適しているそうです。 表土が厚めで、土と砂の層が地表を覆っていると、 葉だけが生い茂って、実をあまりつけなくなってしまうとかで、同じ畑の中でも株によって育ち方の違いが 大きく見られました。

 以前はジーノ・ペドロッティのノズィオラには、ノズィオラらしさがないと言われたこともあるそうです。ジュゼッペは、その“らしさ (tipicoの訳)”とは、じつは化学が関わった味なのだと苦笑していました。



 ジュゼッペが軍役時代、友達とお酒を飲むのに自作のワインを持っていくと、「君のワインはバカみたいに飲んでも 全く頭が痛くならないなぁ、とみんな言っていた」とも。彼は同志たちと、ドロミティ地方に属する自然派ワイン生産者グループ「イ・ドロミティチ」を作り、本当のノズィオラの味を追及し続けています。

 ノズィオラは、甘口のリチョットにも使用されます。甘口用と辛口用では、株は選定の仕方が微妙に違います。ジーノ・ペドロッティの畑の仕立ては、グイヨゥかペルゴラと呼ばれるものです。

 グイヨゥ方式は更に二つ、グイヨゥ・コルドネ・スペロナート(Guillo cordone speronato)とグイヨゥ・パリエーラ(Guillo pagliera、初めて聞きました)に分かれます。パリエーラ方式で剪定をすると、房が長くバラになりやすいそうです。房に隙間ができるほどパッシメント (ブドウの陰干し)には向きます。有効な化学物質がなかった時代は剪定が病気に対する唯一の対抗策だったと、よく聞きますが、こういう選定の技術は、とても興味深いです。

 グイヨゥ・コルドネ・スペロナートは写真のように株の赤い細い線の部分を残し、赤い太線部分を切り、翌年に残った枝の節の部分から芽が生えてきます。グイヨゥ・パリエーラは青い太線部分を切り、青い細線部分の枝を残し、その枝を鉄線に誘引するという違いがあります。

 アルト・アディジェ州ではペルゴラが伝統的な仕立てなのですが、グイヨゥ仕立てのも持っているので、ジュゼッペはどちらが本当に良い方法なのか、絶えず模索しています。「でもペルゴラの方がやっぱりこの土地には良さそうだね」と言っていました。

 100周年記念のために、その前年2011年に家とセラーを改築しました。写真はセラーと、発酵前にブドウを冷やす冷蔵庫と、パッシメント小屋の内部。


 ジーノ・ペドロッティのホームページには、何度もアコリエンテ(accogliente)という単語が出てきます。なかなかうまく訳せませんが、その言葉通りに家族みんなが気さくで、細かな気配りをしてくれます。セラーに隣接するカフェでのテイスティング中にも、たくさんのサイクリングをする人や、誕生日をカフェで祝う人で賑わっていました。午後から湖の方からそよそよと吹いてくる風がとても心地よく、居心地のいい場所でした。正にこの場所全体がアコリエンテという感じです。

2.《 クエンホフ 》 (アルトアディジェ) 訪問記

 オーストリアとの国境から南にわずか45㎞ばかりの所にあるブレッサノーネの町は、南北に延びる山の山あい、標高560mのところにあります。その山間部にセラーと畑を持つピーターとブリジット・プリガー夫妻が営むのが、クエンホフ・ワイナリー。ピーターの曾祖父が200年前にブレッサノーネの司祭から、山間部にある十二世紀に建てられたという家を買い取り、以来プリガー家が生活してきました。その歴史のある大きな家は、長らく、宿泊施設として活用され、そこで宿泊客をもてなすためにワインを作るだけでなく、地域の観光施設にもワインを提供していました。1990年にピーターとブリジット夫妻は、自分たちのクオリティー・ワインを作りたいと考え、セラーをより良い環境にし、畑を少しずつ広げていきます。

 ワイナリーにつくとまず、イタリア人らしい元気なお母さんという感じのブリジットが、カウティという、地方料理を出してくれました。ジャガイモと小麦粉の生地に、シュークルートやホウレンソウを挟んで焼いたクレープのようなものですが、じゃがいものせいかとても素朴なやさしい味です。

 12世紀の建物を改築した地下セラーは、ひんやりと冷たく、昔の、分厚い壁のせいでしょうか、とても静かで、外界と遮断されている感じがしました。ピーターは小柄で、物静かではありますが、慎重に正確な仕事をする人だなということが、綺麗に並んだタンクや大樽、清潔な床や道具から感じられます。収穫期以外は、セラーでの仕事はすべて独りでこなすそうです。また、古いセラーの一階上に増築された、収穫期に使用されるプレス機等が置かれるセラーからは、絞られた果汁が重力のみで発酵槽に移動できる構造になっていて、もちろん整頓され、清潔にされています。タンクはイノックス(ステンレススティール)製、樽は2000lの古い大樽のみです。小さな樽については、特に新樽は、出来上がったワインの味や香りに、他のあらゆる影響が出るのを嫌って、使用していません。瓶のふたについても同様で、コルクを使用せず、金属製のスクリューキャップを使っています。
手前、ブリジット。奥、ピーター
古い造りの家で、内側の壁は全て床も木でおおわれている。

 畑はブレッサノーネを囲む山に計6ha所有していて、斜面を今でも少しずつ開墾しています。2013年はイタリアのヴェネト州以南や、フランスでは長期の雨でなかなか温かくならなかったと、方々で聞きました。ですが、アルト・アディジェ州も北にかなり入っていくと、気温は2011年や2012年に比べると低いものの、この地域としては標準的な気候であるようです。ピーターによると、去年と一昨年は気温が高すぎ、なかなか思ったような酸味が得られなかったそうです。今年は涼しい期間が長く続いたおかげで、さわやかな酸味が期待できると言っていました。2012年を試飲させてもらうと、それでも爽やかさがあるように思われたのですが、ピーターによると、これは酸味からくるものではなく、土壌のミネラルによるものであり、酸味ではなく、塩味だと言われました。言われてみると確かにそのようで、リースリングの12年からは特に顕著にその特徴が感じられました。

3.《 ラエルト・フレール 》 訪問記

 1889年に設立された、ラエルト・フレール。設立から長い間がたち、家族親戚の間で分かち持っていた畑を、元のようにひとまとめにし、ラエルト兄弟はワイン醸造を行ってきました。弟のティエリーの息子、現在30歳のオルレアンが醸造学校から卒業をしたのをきっかけに、自然派へと転向していきました。以前は兄が畑を、弟のティエリーがセラーをと別れていた作業していたものを、畑をオルレアン、セラーをティエリーとオルレアンの父子が、管理しています。また以前は樽を使っていませんでしたが、発酵熟成用に古樽を買い集めています。畑での作業も完全機械作業だったものを、極力手作業に変えました。その変化の中で、今までいた、雇いの作業員は辞めていき、新しく雇いなおさなければならず、員数も倍になりました。取引をする相手も、以前の取引先で未だに継続しているのは半分もないそうです。と、サラッと言ってのけましたが、大変な改革だっただろうと想像できます。



 畑に何か大きな変化は見られたかきくと、収量は落ちたけれども、病気に対して強くなったそうです。今でもどこまで、ボルドー液と硫黄の散布を引き下げられるかギリギリのところを探っています。それから初めて見ましたが、本当に以前は根が地面の表面を張っていたようで、根が株から真横に伸びていました。何回も聞いたことはありましたが、実際に実物を見ると少しゾッとします。隣の慣行農法を続けている畑の葉の色と比べると、鮮やかな緑色で、何も知らなくてもこちらの畑が健康的だとわかります。



  地面を這うように伸びた根










 セラーには、沢山の古樽があり、畑の区画ごとに分けて醸造をし、瓶詰時にアソンブラージュをします。古樽にはもともと赤ワインの熟成に使われていたものもあり、 色素は出てこないものの、熟成中の果汁にまろやかさを与えます。オルレアンは、「畑の区画や品種によって 熟成樽を選び、アソンブラージュをして、自分の求める 味を作るのが僕のシャンパーニュ造りの好きなところだ。僕にはまだまだ学びたいこと、試してみたいことがたくさんある。今のうちは両親が煩雑な書類関係の仕事をしてくれ、出荷なども出来る限りやってくれているから、 本当に助かっている」と言っていました。

4.《 エマニュエル・ブロシェ 》 訪問記

 エマニュエル・ブロシェは、1997年に、家族・親戚が、ランスに代々所有していた2.5haの畑を、自分で耕し醸造する許可をもらい、ワイン造りを始めました。醸造学校を出たばかりのエマニュエルは、はじめは慣行農法をしていましたが、質の良いブドウを得ることを考えるとともに、農薬の散布を止めていき、6年前から完全にオーガニックの栽培を始めています。実験的に10列だけビオディナミック農法を試み、違いを観察中だそうです。発酵、熟成は全て木の225lの樽で、ビオディナミワインを生産しているワイナリーの培養酵母での発酵。11か月の熟成ののちに瓶詰をします。今年、2013年からは自然酵母での発酵も一部試みると言っていました。

 2013年はエマニュエルにとって、驚くほどいい年だとか。確かに沢山雨が降り、畑の管理は難しかったけれども、状態のよいブドウがたくさん実った、と言っていました。11、12年が特に(それ以前も何年か)収量に恵まれなかったそうですが、こういう年が続くと何年かに一度、たくさんの果房が実り、そういう年のブドウはとても質がいいのだそうです。7月中旬にシャンパーニュ一帯を襲った雹も、ランス山(実際は高めの丘という感じですが)のおかげで、うまく雲を避けられ、被害を免れました。

 セラーにつくと、古い家の改装を奥さんと子供達とともにやっているところでした。畑での仕事が忙しくない時に、少しずつ何年かがかりで直していくそうで、二階建ての10部屋以上ありそうな家でしたが、全部自分で修繕すると言っていました。テイスティングはノンドゼとそうでないものをテイスティングさせてもらえました。ノンドゼの方は注いでから、香り、味が出てくるまで時間がかかると感じました。でも、香りがたってからの華やかさは、ノンドゼの方が美しかったです。エマニュエルも同意見ですが、シャンパーニュが飲まれる状況を考えると、極度に冷やされて、開けてすぐに飲まれることがほとんどです。それを考慮に入れ、冷えていても開けてすぐに味がしっかりと出るようにと、ノンドゼでないキュベを作っています。

 シャンパーニュ地方に限らず、大きな生産地は本当に、その一帯がワイン畑のみで、林は丘や山の頂上部に少し 残っているだけで、自然派の生産者の方々からよく説明を受けるような、周りの自然との協調関係を保つといったこともできません。自分の畑が、慣行農法で農薬と除草剤をたくさん撒いている畑と、隣接することも当たり前です。

 エマニュエルと話していると、彼はよく「C'est fait」もしくは「C'est deja fait」という、表現を使います。英語だとIt has done、It has done alreadyという意味ですが、「こういう言い方は悲しいけれども、既に起こってしまったことに対して文句を言ってもしょうがない。やれることをやるだけだ」と、エマニュエル。彼の畑の4分の1には、何十年か前に“都市の堆肥”と呼ばれる町のゴミが撒かれている時期がありました。当時はゴミも減るし、畑にもいいと、言われていたようですが、何年もしない間に廃止になりました。今でもプラスチックやビニール片が多くみられるので一目瞭然ですが、その一画だけはどうにも管理をするのが難しく、病気に弱いそうです。でもそれらを今から取り除くことは不可能です。畑の中に建つ電線の鉄塔も、移動させることはできません。彼はそれでも、シャンパーニュという“売れる”名前のおかげで、挑戦的なことも出来るから、彼の上の世代には感謝もしていると言っていました。

 今回シャンパーニュを訪れて、自然派のシャンパーニュの造り手には独特の哲学があると感じました。シャンパーニュというワインがとても商業的なワインで、他のワイン以上に技術が加えられている中で、ブドウ以外のものを極力加えず、なおかつ今までの消費者を満足させることも考え、その上で、自分の納得いくものを目指していく。他の地方の生産者よりも、意識が高いだとかいうことではなく、シャンパーニュを造る以上ある程度の人の手を加えなくてはいけない余地が、他のワインよりも多いと思うのです。実際ティラージュ、デゴルジュマン、ドザージュ、など、他のワイン造りに存在しない作業が幾つかあります。そして、消費者の関心がより高いことが、シャンパーニュの造り手の独特の雰囲気の理由なのかなと感じます。



合田 玲英(ごうだ れい)プロフィール:
1986年生まれ。東京都出身。

《2007年、2009年》
フランスの造り手(ドメーヌ・レオン・バラル)で
収穫
《2009年秋~2012年2月》
レオン・バラルのもとで生活
《2012年現在》
ギリシャ・ケファロニア島の造り手(ドメーヌ・スクラヴォス)のもとで生活中
《2013年現在》イタリア在住

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