2013.07 ワインライター 北嶋 裕
去る6月20日、モーゼル中流から下流にかけて雹が降った。
肌寒く雨の多かった春に続き、5月の下旬から6月上旬にかけてドイツ東部を中心に広範囲で多くの河川が氾濫し、各地に大規模な洪水を引き起こしたことは記憶に新しい。6月中旬に入って天候が回復し、モーゼルでも30℃を超す真夏日が続いていた。ブドウ樹は2週間以上遅れていた成長を大急ぎで挽回するかのように猛烈な勢いで枝葉を伸ばし、生産者は大わらわで枝の誘引作業に励み、目前に控えた開花はほぼ平年並みのところまで追いついていた。雹が降ったのはその矢先のことである。
朝9時半頃、どす黒い雲がモーゼル渓谷を覆い、急に夕闇が訪れたかのような暗さの中、バケツをひっくり返したような土砂降りに混じって氷の粒がバラバラと音を立てて降り注いだ。「シャイセ(畜生)、雹だ!」と誰もが青ざめたことだろう。特に被害の大きかったのはベルンカステルの隣村のリーザーで、川沿いにある村の石畳はあっという間に泥水の濁流に変わり、場所によっては地面が雹で雪のように白く覆われた。
不幸中の幸いだったのは、今回の雹は氷の粒が小さく家屋や車に被害を及ぼさなかったことと、ブドウが開花前だったことだ。雹の被害は局地的に差が大きく、モーゼル中流から下流にかけて降った中でも軽傷から全損まで、ブドウ畑の区画によって程度が異なる。また、土砂降りで緑化していない斜面では表土が流出し、一部で道路が通行止めになった。雹の後は折れた枝葉の後始末と病気や黴の対策を行い、今後の回復を祈るほかない。しかし、雹のシーズンは、これから夏いっぱい続くのである。
雹の予防対策は保険をかけるか、資金と人手に余裕があれば所有するブドウ畑を広域に分散することも考えられる。また、数年前までは一度やられたらブドウ樹が損傷を回復するまで数年かかると言われていたが、最近では損害が50%以下で早い時期ならブドウ樹は立ち直って、なんとか一部収穫出来る見込みもあるというふうに、評価が変わってきている。
温暖化でブドウが容易に熟すようになったことの裏返しが、雹や病害虫のリスクの増大である。ワイン造りが自然を相手にした仕事であることは今も昔も変わらないが、近年はよりハイリスクな営みになりつつあるのかもしれない。
テロワールの表現と醸造リスク
ある意味では醸造面でも同じことが言えるように思う。 例えば野生酵母による発酵は、安定した発酵を保証する培養酵母を使う場合に比べてリスクは高いが、いわゆる「テロワール」を表現した個性的なワインにするために、あえて取り組む生産者が増えている。培養酵母はブドウの育った畑や地下蔵の外から持ち込まれる「異物」であり、野生酵母はもともとそこに自然発生したものであるから「テロワール」の一部とされる。
つまり、テロワールの表現を目指すのならば、栽培醸造環境に外部から持ち込まれる異物を極力排除するのが理にかなっているわけで、畑では化学合成肥料や農薬の類を排除するので当然ビオやビオディナミに辿りつく。醸造面では酵素、発酵補助栄養物質、補糖、清澄剤などを排除し、酵母の振る舞いを強制する冷却などの醸造技術も出来るだけ用いず、圧搾機などの醸造器具もバスケットプレスや伝統的な木樽など、昔ながらのものが好んで使われる。
だが、テロワールの表現を追求して、ワイン造りの現場から排除に排除を重ねて来ても、これまでどうしても排除しきれなかった異物がある。亜硫酸(二酸化硫黄SO2)だ。
硫黄の防腐効果は既にエジプト文明から知られ、15世紀半ばにはドイツで硫黄のワイン造りへの利用を制限する条例が登場し、その保存効果と発酵を抑制する作用も、当時から知られていたらしい。現在EUの規定では残糖5g/l以下の辛口白ワインの場合総亜硫酸量の上限は200mg/lであるが、出来る限り使用量を抑えているという生産者でも70mg/l前後は検出される。もともと赤ワインよりも亜硫酸による保護を必要とする白ワインの生産が多いドイツでは、収穫直後に一回投入して酵母以外の菌類の活動と意図せぬ発酵の開始を防ぎ、瓶詰前に残糖による二次発酵と急速な酸化を防止するのにもう一回添加することが多いため、ビオやビオディナミでブドウを栽培する生産者は少なくないが、いわゆる自然派(ヴァン・ナチュール)の総亜硫酸含有量40g/ml以下という基準をクリアするワインは皆無であった。
亜硫酸はワイン造りに必要不可欠な「異物」であり、いわば最後の砦であった。テロワールの表現を追求して次々とそれらを脱ぎ去って、最後に一枚残ったパンツのような存在が、亜硫酸と言っても良いかもしれない。また、根が真面目なドイツワインはそのサイズも大きめだが、フランスやイタリアではミニが多かったと考えるとわかりやすい(かもしれない)。
亜硫酸無添加のドイツワイン
冗談はさておき、近年になってドイツでも亜硫酸無添加のワインが――それもリースリングの――が登場したことは、驚くべき出来事であった。今のところ私の知る限りでは生産者は二人しかいない。一人はラインガウのエファ・フリッケで、彼女の「リースリング・シルバークラウン」がそれだ。もう一人はモーゼルのルドルフ・トロッセンで、「プールス」(PURUS)と名付けている。どちらも瓶内二次発酵の防止を考慮してだろう、コルクではなく王冠で封をしており、公的審査に官能試験の必要がないラントヴァインとしてリリースしている。
エファ・フリッケはラシーヌの提案で2011年産から始めたが、独特の素朴さと果実味の重層性と力強いミネラリティやエネルギー感が印象的だ。一方ルドルフ・トロッセンはモーゼルのビオワイン生産者の草分けで、35年前からビオディナミに取り組んでいるが、亜硫酸無添加の醸造に取り組みはじめたのは3年ほど前からだという。一体どうしてそんな冒険を始めたのか、ルドルフに訊いてみた。
「 亜硫酸無添加のワイン造りと最初に出会ったのは、コペンハーゲンのワインバーで開かれた試飲会だった。そのワインバーは私の顧客で、食事にあわせてジュラのデメターの生産者のワインを出してくれたのだが、その時は好きになれなかった。酸化気味で精彩を欠く異質な存在で、全然飲む気にならなかった。次の出会いをくれたのは、ベルギーのワイン愛好家の医者だった。彼は私の醸造所を訪問する時、たいていフランスワインを提げてくる。 たとえばAlexandre Bain, Alexandre Jouveaux, Guy Blanchard, Banwarth,Schueller, Radikonなどや、Fallet-Prévostat, Andre & Jacques Beaufortといったシャンパーニュだ。そして、コペンハーゲンのインポーターのラッセ・クルーゼ・ラスムッセンや、ベルギーのソムリエのヴォウター・ド・バッカーも、私たちと一緒に試飲しながら、そうしたワインに対する知覚能力を磨いてくれた。そして二年ほど前に、昔からの友人でアルザスの醸造家ジャン・ピエール・フリックを訪れ、彼と奥さんのシャンタルと一緒にセラーのワインを一通り試飲した。ワインは全て亜硫酸無添加で澱の上で熟成中だったが、その深みと構造のしっかりした純粋さに感銘を受けたんだ。2012年の1月にロワールのBrezeと、もうひとつコルマールで開催されたヴァン・ナチュールの試飲会でも数多く試飲した。
実際のところ、人は視野を広げ、たくさんのワインを先入観なしに試してみなければならないね。世の中にワインは無数にあって、単調で退屈で型にはまったワインが至るところにある一方、それ自体が一編の詩であったり、インスピレーションが湧いてくるワインもある。
私たちが亜硫酸無添加の醸造を始めたのは2010年産からで、ガラス製のバルーンひとつでリースリングを醸造した。それから2011年産でシーファーシュテルンSchiefersternを約400ℓ、2012年産は3種類(Schieferstern, Pyramide, Lay)を合計2000ℓ醸造して、ラテン語で『ピュア』を意味する『プールス』(PURUS)と名付けた。一部は既にビン詰めしてスウェーデン、ベルギー、オランダ、スイスに出荷したが、残りは樽の中で乳酸発酵が始まったところだ。これで酸の構造が柔らかくなり、香りに新たなニュアンスが加わる。
調整せずに放置し、亜硫酸を添加せずにフィルターもかけないワインが、私たちの考えでは、醸造で手を加えた ワインよりもずっと上出来で、くっきりとして、明瞭にテロワールの個性を表出する。このことは、注目に値することだと思う。市販されている培養酵母を添加すれば、例えば本来あるべき『明晰さ』(Klarheit)が損なわれ、味覚や香りの成分が変わってしまう。それは、あたかも森の中に横たわる湖は静寂な状態が一番澄んでいて、立ち入ったり波風が立つと見通しが効かなくなる様子に似ている。
しかし、品質の根源はやはり土壌にある。生きた土壌の中で敏感なブドウが育ち、果実の中に時間と空間が反映され、つまり生産年とブドウ畑、風や天候が圧縮・凝縮され、やがて全てが生産者の手によって形作られるわけだ。私は以前、これについてこんな詩を書いたことがある:
『ふるさとのワインとフランケンシュタイン』
ワインの中で二つの世界が出会う:
一方は産地を表現し、
他方は科学技術を駆使し
酵母と酵素で
ワインから個性を奪う:
化粧され、白粉をはたかれ、つるりと剃られ。
ワインに土や石の匂いがしたら
仄かな果実の香りが微かに舞ったら
彼は育った土地を語っているのだ。
まっとうで、果てしなく向上し、繊細なら、
それを「ふるさとのワイン」と言う
だが新しい醸造技術が駆使され、
砕かれ、凝縮され、香りをつけられ、
けばけばしく着飾っても個性に乏しいなら、
人はそれを「フランケンシュタイン」とさえ呼ぶ。
真正性の根源は土壌にある、
それ故に私は土壌を養い、流行に抗う。
ブドウ畑を本当に愛する者は
畑の栄養になるものを選ぶ。
やがて土壌は生き生きとして、
やがて腐葉土は効果を発揮して
やがて愛に応えてくれる、
一滴一滴が、
純粋な喜びとなる。
ルドルフ・トロッセン 2002年4月
35年間ビオディナミでブドウ畑を世話してきて思うのは、土壌を間違った作業、圧密、合成窒素肥料、除草剤などで破壊しつくすまでには長い時間を要するが、その土壌を再生し、植え付け可能にし、呼吸させ、生命を呼び戻すのにも非常に長い時間がかかるということだ。その際、ルドルフ・シュタイナーによるビオディナミの方法、とりわけ牛の角に詰めて熟成した牛糞と水晶の粉のプレパラートは非常に効果がある。土壌に繊細なニュアンス(Feinheiten)を生じうるようになってはじめて、生産者はこの繊細なニュアンスを(ワインの中に)維持することができる。
後、もしも他の生産者が亜硫酸無添加のワインを造りたいと助言を求めてきたら、こう言いたい。品質は土壌から生まれる。だから、まず土壌を蘇らせ、土壌の生命を妨げるもの、とりわけ化学合成肥料と除草剤をことごとく排除したまえ。ミミズを飼い、ビオディナミのプレパラートで植物と土壌を慈しみ、熟したブドウを収穫する。その際、成長を促進するような肥料を用いないことが前提だ。ワインをあまり動かさず、添加物を加えず、澱の上に長期間寝かせ、時々澱をかきまぜて、樽をいっぱいに満たした状態を保ち、まめに試飲して状態を管理し、手作業でビン詰めすることだ、と。」
シーファーシュテルン・プールス2011は、野生的で繊細なモーゼルのリースリングで、引き締まった酸味とミネラルと酵母の香味が力強く軽やかだった。ある意味では素朴なワインで、私が以前、ブドウ畑に残っていたリースリングを持ち帰り、絞った果汁をボトルに入れて放置したとき自然に出来たワインの味に似ていた。あるいは、幼児が描いた絵のような、飾らない素直さに通じるものを感じた。そこに価値を見出すのには、飲み手の嗜好、あるいは先入観にとらわれない審美眼が必要かもしれない。それは、前衛芸術の評価に似て、直観的に理解できる人もいれば、経験と素養を培う 必要がある場合もあるのではないか、と個人的には思う。
いずれにしても、ドイツワインにおけるテロワールの表現は、どうやら次のステージへとむかいつつあるようだ。野生酵母の利用、100年前の醸造手法の再発見から、今や亜硫酸の普及以前、もしかすると500年以上昔、古代から中世にかけて造られていたものと基本的には同じワインが蘇りつつある。栽培面ではビオやビオディナミはもはや異端ではなくなり、自根、古木、混植混醸が見直され、ごく限られてはいるがラインガウとファルツではアンフォラによる醸造が試みられ、フランケンとヴュルテンベルクではコンクリート製の卵型タンクが、近年いくつかの醸造所で試験的に導入された。
誰が飲んでも美味しいフレッシュ・アンド・フルーティから、唯一無二の個性を持ったその土地でしか出来ないワインへと、ドイツがアピールするワインのスタイルは変わりつつある。様々な選択肢の中で「ワインとはどうあるべきか」という生産者のワイン造りの哲学とともに、「どんなワインが飲みたいのか」という消費者の意識もまた、問われる時代となりつつあるのかもしれない。
(以上)
北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」(http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。