2013.03 ワインライター 北嶋 裕
ドイツにはいわゆる「銘醸畑」というものがある。ヴェーレナー・ゾンネンウーア、ピースポーター・ゴルトトレプヒェン、ブラウネベルガー・ユッファーなどで、時々「日時計」「黄金の雫」「乙女」などと畑の名前の日本語訳が書いてあったりするのだが、それが幾ばくかのイマジネーションを掻き立て、時には畑の立地条件と関わりがあるにしても、往々にしてワインの個性とはあまり関わりがなく、まして品質を保証するものでもない。この事が日本ではこれまで十分に直視されてこなかったのは、ドイツワイン市場が主として日頃ワインを飲みつけない消費者か、ジャーマン・フリークに支えられてきたことを反映しているのではないだろうか。
改めてそう思ったのは、有志と月一回開催している「いまどきドイツワイン塾」に参加した時のことだ。今月のテーマはドイツの銘醸畑であった。折しもVDPドイツ高品質醸造所連盟を中心とした葡萄畑の格付け(エアステ・ラーゲ、グローセ・ラーゲ、グローセス・ゲヴェクスにエアステス・ゲヴェクスといった紛らわしい名称が乱立している)が話題となる昨今、ドイツのグラン・クリュに相当する葡萄畑はワインにどのような個性を付与しているのか。言い方を変えれば、グラン・クリュのドイツワインはどのような資質を備えているべきなのかを、ブラインドで試飲しながら考えようという企画であった。
「銘醸畑」=葡萄が熟すことの出来る畑
そもそも、「銘醸畑」とは何なのか。私ごときの手にはあまるテーマだが、歴史的な観点からその成り立ちを振り返ってみる。古くはカール大帝がインゲルハイムの居城から、対岸の斜面のとある区画の雪解けが早いことに気づき葡萄栽培を命じたのが、現在のシュロス・ヨハニスベルクであるという伝説がある。実際、817年にはフルダの修道院の所領としてそこに葡萄畑があったことを示す証書があるそうなので、あながちありえない話でもないかもしれないが、ここでポイントとなるのは雪解けの早い温暖な場所という点だ。北国のドイツでは1980年代までは葡萄が完熟するのは10年に2、3回という冷涼さであったから、「葡萄が熟す条件を備えた温暖な場所」は貴重であり、銘醸畑の第一の条件であったはずだ。
リースリングの普及 (1670年頃~)
次に、葡萄畑のポテンシャルをワインに反映する葡萄品種が必要となるが、ドイツでは勿論リースリングである。史料に登場するのは1430年頃だが、本格的に普及するのは1670年頃からで、各地の司教や貴族によって質の劣る品種からの改植が推進された。ヨハニスベルクでも1720年頃にリースリングの苗木を38,500本植樹したという記録があり、当時一般的だった混植栽培に対するラインガウで最初の単一品種による畑の記録とも言われている。1786年にトリーア大司教で選帝侯のクレメンス・ヴェンツェスラウスが、質の劣るワインを産する葡萄を引き抜き「高貴な品種」に植え替えるよう勅令を出したことは有名だ。リースリングは晩熟で、その名が花震い(ドイツ語でリーゼルンrieseln)に由来すると言われるように開花期の寒さに弱く、南向きの日当たりの良い斜面で岩石が多く温まりやすい土壌でなければ、昔はなかなか完熟しなかった。さらに収穫量は当時一般的だったクラインベルガー(エルプリング)の半分から三分の一であったという。つまり、17世紀末から18世紀にかけて質の向上が熱心に求められたわけで、リースリングの普及とともに銘醸畑の需要も高まったはずである。
収穫技術の洗練 (1730年頃~)
質の向上と密接な関係にあるのが収穫技術の洗練である。1775年にヨハニスベルクで収穫開始を告げる使者の到着が遅れ、シュペートレーゼが「発見」されたという話は有名だが、実際はすでに1730年頃には、貴腐化した葡萄を収穫に混ぜることでワインの香味が向上することが知られていた。ヨハニスベルクは1787年以降毎年収穫を遅らせ、やがて熟した収穫を選りすぐり見事なワインを造ることで広く知られるようになる。「ワインの質は畑次第だが、遅摘みにもよる。この点で貧しい農民と富裕な生産者は争って止まない。というのも前者は量を、後者は質を欲するからだ」と、ゲーテは1814年9月6日にラインガウで記している。その数年前、フランス革命後に新しいオーナーのもとで資金難にあえいでいたヨハニスベルクから、1811年産50樽を一度に買い取ったフランクフルトのワイン商で銀行家のムムはひと財産をなした。ここから、商業的な成功を求める生産者はこぞってヨハニスベルクの収穫手法を模倣するようになった。選び抜いたリースリングの苗木を恵まれた立地条件にある畑で栽培し、何度も畑に入り完熟した房を選りすぐりながら収穫し、自然な果汁だけでワインを醸造した。こうしたやりかたで造られたワインが19世紀末にかけて、ドイツ産リースリングの評価を高めていったのである。
葡萄畑の格付け (1867年~1925年)
17世紀末頃にはじまるリースリングの高品質化は、やがて1867年にラインガウ、1868年にモーゼルで発行された葡萄畑の格付け地図に結実する。当時のドイツワインのグラン・クリュを明確化したこの格付けは、北ドイツ連邦成立にともなう市場拡大に鑑みた政府がワイン商や投資家のワインの買い付けの利便を図ったものだが、ワインの取引価格から算出された葡萄畑の固定資産税に基づき3段階に色分けしてある。最も濃い色で塗られている畑、すなわちグラン・クリュに格付けされているのは全体のごく一部、ざっと見た所では3~5%前後でしかない(下図参照)。この他1925年までにアール、ミッテルライン、ナーエ、ファルツの葡萄畑の格付け地図が発行され、地域によっては何度も改版された。
ラインガウの格付け(1867年)
(http://www.dilibri.de/rlb/content/zoom/446183)
モーゼルの格付け(1868年)
(http://www.dilibri.de/rlb/content/zoom/986766)
銘醸畑のインフレ(1971年~)
第二次世界大戦が終わり1950年代に入ると、甘口ワインの人気が高まり需要が伸びた。本来葡萄栽培に向かない平地にも葡萄畑が開墾され、急斜面の葡萄畑では農作業の効率化の為に耕地整理(フルアベライニグングFlurbereinigung)が行われることになった。それはナポレオン法典に基づく等分相続で細分化された区画を所有者間で等価交換して一つにまとめ、トラクターが通る農道を整備するものである。
耕地整理の概念図。
(Daniel Deckers, Im Zeichen des Traubenadlers. Eine Geschichte des deutschen Weins, Mainz 2010, S. 113.)
だが、格付けで区画の価値に差があると交換の際の調整に不都合であった。誰だって所有する畑を価値の劣る畑と交換したくはない。1971年のワイン法で多くの畑が統合されたのには、こうした背景もあったと言われる。約25,000あった単一畑名は約10分の1の2,643に整理統合され、単一畑内の特に立地条件の良い区画名もエチケットに記すことが禁じられた。かつてのグラン・クリュは数倍の面積に拡張され、響きのよい名前で複数の村にまたがる広大な総合畑が新たに創設された。
以下はモーゼルのユルツィガー・ヴュルツガルテンの畑だが、左の青く塗ってある部分が1971年のドイツワインで画定された区画で、右が1868年の格付け地図である。本来のヴュルツガルテンはユルツィヒの村の上部の濃い赤で塗られた小区画で、1971年にその右側のクランクライKranklayという畑と統合された。かつてのグラン・クリュは南向き斜面の川沿いから中腹に集中しているが、現在の畑名からは斜面の向きなど立地条件による差を読み取ることは出来ない。
1971年の葡萄畑の区画はhttp://weinlagen-info.de/参照。
また、以下はシャルツホーフベルクの新旧比較である。1971年のドイツワイン法で面積は18haから28haに拡張している。本来のシャルツホーフベルクは丘の中腹から麓にかけて南向きのパラボラ状にくぼんだ斜面を指したが、その上部で標高が高い為に冷涼で葡萄が熟しにくかった区画と東側の区画が併合追加された。
グラン・クリュあるいは銘醸畑とされる畑でも、その中には条件の異なる区画が混在していることがお分かり頂けたと思う。この1971年のドイツワイン法によって、エチケットの上の葡萄畑名とワインの個性との関連性は見極めにくくなってしまったのである。
グラン・クリュの現在
1990年代後半に入ると辛口化の傾向を受けて、畑の格付けを行おうという議論がラインガウ、ファルツ、ラインヘッセンのVDPドイツ高品質ワイン醸造所連盟を中心に本格化する。その際の基本資料となったのが19世紀の格付け地図である。しかしVDPの基本案を先取りする形で1999年に格付けを法制化したラインガウ葡萄栽培者連盟では、葡萄畑のおよそ三分の一にあたる約1100haを格付け畑に認定してしまった。恐らく地域全体の意見を取りまとめる過程でそうなったのだろうが、民主的ではあってもこれでは格付けの意味があまりない。VDPが定める他の産地の格付けはそれよりも厳格というが、同連盟に所属する200あまりの醸造所が所有する葡萄畑はドイツ全体の葡萄畑の約5%にすぎない。元々長年にわたり優れたワインを生産している醸造所が加盟を許されるエリート団体なので、彼らの定める格付け畑からのワインとそれ以外のワインの質の差は、私見では価格ほど明確ではないように思う。そしてまたVDPに加盟していないために格付け畑を持たないが、格付け畑と同等以上の見事なワインを醸造する生産者は数多く存在する。
結局のところ、ドイツのグラン・クリュの現状は混沌として見通しが効かない。先日のセミナーでも10種類あまり試飲した、いわゆる銘醸畑のワインのうち、シュロス・ヨハニスベルクとエゴン・ミュラーのシャルツホーフベルク(もっとも、参加者の大半はこれをグラン・クリュとは思わなかったが)のみであった。19世紀のグラン・クリュがかならずしも21世紀にも通用するとは限らないし、温暖化のすすむ昨今ではこれまで知られていなかった場所がグラン・クリュとなりえる可能性もあり、そのポテンシャルを引き出す生産者を、あるいはそのワインを見出す消費者を、未知なる畑は待っているかもしれない。
いずれにしても、従来の「銘醸畑」は生産者とセットで捉えない限り、ワイン選びには使えない単なる飾りと思った方がいい。VDPが推進する格付けも、ドイツワインのテロワールが持つポテンシャルを意識させ、辛口の質を向上させてきたという点では非常に有意義な試みではあるが、格付けワインすべてにグラン・クリュを期待することはできない。最終的には我々一人一人が、銘醸畑という先入観、すなわち色即是空の色を滅してまっさらな気持ちでワインに対峙し、自らの基準と価値観でグラン・クリュを見出し、その歓びを互いに分かち合うべきなのだろう。
北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」(http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。