ドイツワイン通信 Vol. 13

再会

2012.11    ワインライター 北嶋 裕

 ファン・フォルクセン醸造所のオーナー、ローマン・ニエヴォドニツァンスキーに会うのは久し振りだった。
 いや、まさか日本で会うことになろうとは思わなかった、と言うべきか。
 京都・東山の長楽館の一室で長身の彼が身をかがめてMacBookに向かい、これから始めるプレゼンテーションの準備をしている様子を目にした時、一年半あまりの空白の時間が一度に流れ去ったような気がした。
「やぁ、久しぶり」「調子はどう」
と、まるでついこの間会ったばかりのようにさしたる感動もなく、ごく普通に軽く挨拶をした。そして、実は途方もなく奇跡的なことなのだが、そうなるべくしてなったかのような、今までの出来事がこれからのための準備であったかのような、そんな気がした。

 ローマンと出会ったのは偶然だった。今から11年ほど前のある日の夕方、いつものようにトリーアの中央広場の立ち飲みスタンドで地元生産者のワインを飲んでいると、市内のモーゼル川沿いにある醸造所を経営している顔見知りのA氏が、友人と一緒に立ち寄った。
「やぁ、またワインか。ワインがあるところ、どこに行っても君はいるな」とA氏。
「すいません、好きなもので」と私。A氏とは試飲会で年に何度か顔を合わせるほか、醸造所にも時々遊びに行っては、色々と試飲させてもらっていた。
「そういえば、週末にヴィルティンゲンの新しい醸造所で試飲会があるよ」と、ワイン愛好家らしいA氏の友人が言った。「ヨーダン・ヨーダン醸造所って言うんだけど、去年オーナーが変わってね。君と同じトリーア大の学生って聞いたなぁ。今度がお披露目だから、興味があったら行ってみるといいよ」
 聞いた通りに赴いた醸造所で初めて会ったのが、まだ30歳そこそこで初々しいローマンと、当時彼の右腕で、今はバッテリーベルク醸造所を切り盛りしているゲルノート・コルマンだった。

 それからの11年という歳月は、長いようであり、そして短いようでもある。
 1999年、ローマンは破産に瀕していたヨーダン・ヨーダン醸造所を購入し、19世紀以来の醸造所名ファン・フォルクセンに改名した。当初8haだった葡萄畑は年々買い足され、現在では51haに達している。個人経営の醸造所としてはモーゼルでも最大手の一つだ。毎年5月にベーシックなワインが、9月に畑名入り以上のワインがリリースされると、ほぼ2週間で売り切れるという。8月下旬の新酒試飲会にはあまりにも大勢の顧客が押し掛けるため、3年前から招待客を大幅に制限するようになった。メディアの評価も高く、今やその勢いは止まるところを知らない。

 ローマンは、この10数年を全力疾走して来たと言ってよい。あらん限りの力を振り絞って、理想とするワインを妥協せずに追求して来たように見える。
「優れたワインを醸造するには、三つ重要なことがある」と、通訳をしながら私は何度も聞かされた。「優れた葡萄畑、優れた遺伝的素質の苗木、そして労を厭わない手仕事だ」そしていつも付け加えるのだ。「とても重要なことだよ」(ゼア・ヴィヒティヒ„Sehr wichtig“)と。

 彼が購入したり栽培を委託したりする葡萄畑は、スレート粘板岩土壌の急斜面の畑だけである。購入した畑にドルンフェルダーや交配品種があると引き抜き、マサルセレクションで育てた自根のリースリングの苗木に植え替える。棒仕立てでハート型に整枝し、化学農薬や除草剤を使わず、収穫量を35hℓ/ha前後まで切り詰めて、手作業で徹底的に選果しながら収穫する。醸造にも野生酵母を使い、大半は木樽で時間をかけてゆっくりと発酵する。
「基本的には100年前と同じことをしている。モーゼルのワインが世界最高のワインと評価されていた頃と同じやり方だ」セミナーの中で彼はそう言って、1900年頃の文献をスクリーンに映し出す。「ほら、ここに書いてある。『モーゼルのリースリングは花のようにかぐわしく、精妙かつ軽やかでしかも体によく、世界で最も優れたワインの一つである』と」続いて彼が集めているという、当時の一流レストランのワインリストを見せる。そこではラフィット、マルゴー、オーブリオンなどよりも、モーゼルのワインに高値がついていた。これこそがザールでワイン造りを始めた理由だという。ザールの最上の畑からは世界最高のワインを造れるはずだ。彼が目指しているのは100年前と同じく自然がもたらした純粋な果汁のみで造った、いわゆるナチュアラインNaturreinで醸造された最高のワインであり、それに相応しい評価なのである。20世紀の激動の時代の中で忘れられ、戦後にはじまる甘口ワインの大量生産と1985年のジエチレングリコールスキャンダルで地に堕ちた、ドイツワインの栄光の復活….。

 やるからには、とことんまでやる。相手によって手を抜くことなく、常にベストを尽くす。
 そんなローマンの姿勢は、これまで幾度も醸造所を訪問する度に目にして来たし、今回も変わらなかった。自ら試飲ワインの供出順を決め、デカンタージュやグラスのサイズからプロジェクターの映像の位置に至るまで、彼は細かに指示を出した。夜は醸造所と連絡をとらなくてはと早めに引き揚げ、その翌日はほとんど寝ていないと言いながらも疲れを見せなかった。颯爽として親切で、腰痛に悩まされつつもワインの説明に手を抜くことは一切なく、自分のために何かをしてくれた人に感謝の言葉を忘れない。人当りは良いが、その芯には極めてドイツ人らしい、頑固で徹底したところがあった。

「仕事がんばっていたかい?」(„ヴァールス・ドゥ・フライスィヒWarst Du fleißig?“)
日曜と祝日をはさんでローマンと再び顔を合わせた火曜日の朝、彼は挨拶がわりにそう聞いてきた。
「いや、ゆっくりしてたけど」と私。
「そいつはよくないな。仕事をしない人間は肉の塊にすぎない。祖母がいつも言っていたんだけどね」とローマンは真顔で言った。倹約と勤勉は祖母に叩き込まれたのだと言う。それは恐らくドイツ最大のビール醸造会社を築いた母方の祖母だろう。ローマンの父はポーランドの原子物理学者で、祖父はユダヤ人として強制収容所で最期を遂げた。父は祖父がなぜ殺されなければならなかったのかを知るため、強制収容所に関する史料を集めたという。父の歴史への関心がローマンにも影響を与え、やがてドイツワインの過去への扉を開かせることになる。

「ドイツワインをダメにしたのは、ナチスによるところが大きいと思う」と、ローマンは1900年頃に開催された競売会の写真を示して言った。セピア色を帯びた白黒写真には100人を超す男達が数列の長いテーブルについて、檀上のカメラマンの方を向いていた。「参加者のリストを調べたところ、会場にいたワイン商達の約7割がユダヤ人だった。当時のワインリストは生産年、葡萄畑の次にまずワイン商の名があり、その下に醸造所が一回り小さな活字で記されていることが多かった。つまり、ワイン商が品質の保証人として重要だったのだ。にもかかわらず彼らを抹殺したことで、ドイツワインは目利きでもある売り手の大半と販路を失ってしまった。それが第二次大戦後のドイツワインの質の低下を招いたんだ」とローマンは分析する。彼は昔の競売会の記録を集め、落札価格から評価の高いワインを産する葡萄畑を探し、1865年のプロイセン政府が固定資産税査定の為に調査格付けした葡萄畑地図も参照しながら、葡萄畑を地道に買い足して来た。

 それでもまだ、需要に供給が追い付かないという。現在も葡萄畑の買い取り交渉を進めるとともに、醸造施設の新築を準備している。一族がアイフェル山地に所有する約5000haの山林から80本の樫の木を切り出し、オーストリアで最高の樽職人に1000~2000ℓの大樽100基の製造を発注した。今回の来日では醸造施設の建築デザインの参考にと、京都の庭園をいくつか見て回った。中でもローマンの心に一番残ったのは仁和寺であったようだ。宸殿の縁側から池を囲む北庭を眺めると、なんとも言えず心が落ち着いてくる。「ここは昔から時間が止まっているかのような、不思議な気持ちになるね」と言うと黙り、じっと景色を眺めていた。
「訪日がこの3ヵ月で最初の休日だよ」とつぶやいた。「ここしばらく、一日も休みがとれなかったんだ」そういえば、彼の相貌には以前よりも少しばかり皺が増えていることに気が付いた。

 あれから3週間が過ぎた。10月も末の今ごろは収穫の最盛期だろう。
 60人余りの収穫作業者をルーマニアから呼び寄せ、連日夜明けから日没まで急斜面の作業は続く。好天でリースリングのアロマはこの数日で一気に高まり、量こそ少ないものの、質の良い生産年になりつつあるという。だが、今週末から最低気温は氷点下まで下がる見込みだ。今が正念場である。
 もうしばらくの好天と、醸造所のチームの健闘を祈りたい。

北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」(http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。

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