ドイツワイン通信 Vol. 9


2012.06    ワインライター 北嶋 裕

ドイツとプーリア

 先日、ヴィノテーク誌の取材でイタリアの南端のワイン生産地域、プーリアに行かせて頂いた。一週間ほど滞在した期間中、毎日青い空が広がって最高気温は30℃に達し、白茶けた街並みの上を響き渡る教会の鐘の音はドイツのそれよりも甲高く軽やかだったが、懐かしく心和ませるものがあった。

 プーリアのワイン事情は誌面で改めて詳しくお伝えするとして、南にあるこの産地の今の状況に接しながら、私は10年ほど前のドイツの状況に、どこか通じるものがある気がした。勿論、ドイツとイタリアでは気候や文化、国民性がかなり異なることは言うまでもない。地中海世界に属し、既に紀元前8世紀にギリシアの植民地であった頃からワインを造っていたプーリアと、アルプスの北で森の奥に住んでいたゲルマン民族を征服した西ローマ帝国と、その後中世初期のキリスト教化とともに葡萄栽培が伝播して行ったドイツとでは、ヨーロッパのワイン文化圏の南限と北限という、両極端ほどの違いがあるようにも見える。

 確かに、プーリアは葡萄の栽培には適している。ドイツのように川沿いの斜面を利用し、夏の遅い夕暮れと川面の反射光を利用して光合成を支援するまでもなく、石灰質の緩やかな丘陵地で海風に吹かれながら、葡萄はさしたる苦労もなく熟す。いや、近年では熟しすぎるのだが、それはともかく、収穫もまた8月から早々に始まるプーリアに対し、ドイツでは9月上旬にスタートし11月上旬に終わりを告げるまでの間、秋の天候は不安定で変わりやすいのである。冷たい霧雨の降りそぼる中で収穫を行うことも珍しくない。熟し具合をチェックしながら好天が一日でも長く続くことを祈っていると、胃のあたりがキリキリと痛むよ、という生産者の話を幾度も聞いた。

 葡萄栽培の理想郷のようなプーリアだが、逆にそれが過剰生産を招いてきた。栽培面積はEUの減反支援政策の成果で減少しつつあり、現在はドイツ13生産地域を全部あわせた102,186ha (2010年)よりも若干少なくなっている。とはいえ、イタリアのわずか一生産地域の葡萄畑がドイツ全体の葡萄畑に匹敵するのだから、ドイツワインがそれだけ希少で貴重かというとそうでもなく、やはり生産過剰に陥っていた。

「地下蔵はワインで満杯、価格は底知らずに下落」と、昨年まで13年間住んでいたモーゼル河畔にある町トリーアの地元紙は1999年頃に報じていた。モーゼルでは3ha以下の小規模生産者が多く、大半は醸造協同組合に葡萄を納入したり、民宿を兼業して常連客や観光客相手に自家醸造したワインを瓶詰して売ったり、大手醸造会社に樽ごと売ったりして生計を立てている。雨がちで寒かったが量はとれた1998年に続き、1999年は天候に恵まれ一転して豊作となったため、前年の売れ残りに加えて在庫が溢れ、小規模生産者は大手醸造会社に樽売りワインを徹底的に買い叩かれた。それでもどうにか食べていくには量を作るより他になかったから、収穫量は往々にして100hℓ/haを超え、個性に乏しいワインが収穫され、売れ残り、そしてまた買い叩かれた。経営に行き詰まった醸造所が売りに出たり、後継者がいない生産者の葡萄畑が放棄されたりして、あちこちに荒廃した区画がぽつり、ぽつりと増えていった。収穫量を抑えて高品質なワインをリリースする醸造所も勿論あったが、モーゼル川沿いに2万以上といわれる醸造所の中のほんの一握りに過ぎなかった。

 私の知る限りでは、1999年頃が現在に至るまでのドイツワインのどん底であった。2000年に入るとラインヘッセンやファルツで若手醸造家団体が相次いで結成され、ザールでは倒産して売りに出ていたヨーダン・ヨーダン醸造所を、当時まだトリーア大学に在籍していたローマン・ニエヴォドニツァンスキーが購入し、新生ファン・フォルクセン醸造所として最初のビンテッジを収穫した。同じ年にモーゼルでスイス出身のダニエル・フォレンヴァイダーが、当時無名の葡萄畑ヴォルファー・ゴルトグルーベを購入し、翌年見事なリースリングを醸造して注目を集めた。今と違ってドイツのテロワール、葡萄畑のポテンシャル、ワイン醸造業の未来など、ほとんどの人が信じていなかった時代である。どうせすぐに泣きべそかいて投げ出すさ、ワイン造りなんて素人が簡単に出来るものじゃない。と、トリーアの大聖堂の近くにあるワインスタンドに集う地元の呑兵衛と地元生産者のほとんどが、ビール醸造会社の御曹司の挑戦に肩をすくめていたことを覚えている。

 しかし大方の予想に反して、ファン・フォルクセンは現在ではエゴン・ミュラーと並ぶザールの大御所にまで成長した。胴回りを除いては当時からあまり変化のない私とは大違いだが、それはともかく、ザールのテロワールを信じ、そのポテンシャルをリースリングで極限まで引き出そうとし続けたところに、成功の鍵があったように思う。そして今回、プーリアの生産者団体がコンセプトに掲げていたのも、ワイン産地のアイデンティティであった。恵まれた気候条件により、色が濃くアルコール濃度の高いワインが容易に出来るプーリアは、かつて北イタリアやフランスへのブレンド用バルクワイン供給地であった。1992年に同地の地場品種プリミティーヴォのDNAが、カリフォルニアのジンファンデルと一致したとわかるとプリミティーヴォの生産が急増したが、そのエチケットにはZinfandelと大書された。シャルドネ、カベルネ、メルロなど国際品種が熱心に栽培された時期もあった。「しかし今、プーリアが追及しているのは産地のアイデンティティである。市場における価格戦略でも、国際的に通用するスタイルでもない」と、2年前に立ち上げられたばかりの生産者団体「プーリア・ベスト・ワイン」の代表ルイジ・ルビーノ(テヌーテ・ルビーノ)は声を大にして、きっぱりと断言していた。語りながら表情豊かに手を動かしていたところはいかにもイタリア人らしかったが、39歳の若さで200haの葡萄畑を所有する醸造所を経営し、1500名以上の組合員を抱える大手協同組合を含む26の生産者が加盟する団体を統率する、意思の強く知的なこの若手醸造所オーナーに、私は彼と同世代のローマン・ニエヴォドニツァンスキーを思い出さずにはおれなかった。

 危機的な状況にあるということは、若手やよそ者、つまり従来の枠組みの外から参入してきた人材なり会社が能力を発揮する好機なのかもしれない。ドイツでは若手醸造家達の活力を受けて、業界全体が勢いと自信を取り戻して久しい。プーリアが今後どう発展していくかは未知数だが、バルクワインから高品質ワインの産地への変革は確実に進みつつある。

 いずれにしても、10年ひと昔とはよく言ったものである。東京の街並みが変わるように産地の状況は大きく様変わりし、実力のある生産者は常にヴァージョンアップを重ねている。過去の常識は使い物にならないが、だからこそワインは面白い。

 

北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」(http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。

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