2012.05 ワインライター 北嶋 裕
白ワインを飲もう。もっと。
爽快な5月の風が吹き渡る時、私はモーゼルを想う。トリーアの町の中央市場には、近隣の醸造所がワインを売りに来る屋台がある。地元の住民が「ワインスタンド」と呼ぶ六角形の仮設居酒屋なのだが、青空の下に千年以上の時の流れに耐えてそびえ立つ、巨大な石門ポルタニグラから中央市場を吹き抜ける爽快な風の中、そこで楽しんだリースリングの繊細な味わいは、今も私の中に息づいている。
栽培されているブドウの九割以上が白ワイン用ブドウで、その大半がリースリングというモーゼルに暮らしていたのだから当然といえば当然かもしれないが、あの頃は白ワインを飲むことが圧倒的に多かった。ワインスタンドに来る生産者は数日ごとに入れ替わり、造り手が変わればまた味も変わる。品種、ブドウ畑、ビンテッジ、味筋、格付け、醸造手法、収穫のシチュエーションなど、栽培・生産条件とそれが反映された香味のヴァリエーションは数限りなく、夕飯の食材を買いに町に出ると私の足はつい、ワインスタンドへと向かった。
昨年9月に日本に帰ってきてからも、自宅ではドイツ産に限らず白ワインを飲むことが多い。赤も飲むが、白の方が空になるのが早い。飲み口が軽くアルコール濃度が若干低いというだけでなく、食事に合わせやすいからだ。たとえば、スーパーや百貨店地下のお惣菜コーナーを思い浮かべてみよう。寿司、コロッケ、焼き鳥、青椒肉絲といった和洋中華の惣菜の中で、あえて赤ワインを合わせたくなるものが、一体どれだけあるだろうか?ほとんどの場合は辛口白で事足りる。あるいは、こう考えてみることもできるかもしれない。ビールや日本酒に合う惣菜は、辛口から中辛口の白ワインにも基本的に合う。
ところが、日本ではなぜか赤ワインが主流であるという。赤にはポリフェノールも入って健康に良いからといった理由もあるが、ワインといえば甘口より辛口、辛口ならば白よりも赤という人が多いそうだ。メルシャン(株)の推定によれば、日本のワイン市場における2010年色別構成比率はロゼ・白・赤がそれぞれ9%、37%、54%で、赤が過半数を占める。しかも英国の市場調査会社IWSRが昨年発表した予測によれば、日本市場では2011年から2015年にかけて白ワイン消費は0.84%減少するという。
それにしても、白ワインにあう料理が食卓に上る機会が圧倒的に多いのに、赤ワインの方が売れているというのが私には不思議でならない。不自然ですらある。隣の韓国や中国でもワインといえば赤というイメージが根強いというから、食文化とワインの消費傾向の乖離は、嗜好品としてのワインの存在価値を裏付けるものと言えるかもしれない。確かに、価格的にお惣菜とワインは同レヴェルに語れない。そしてまた、それなりに手頃な価格でおいしい辛口白ワインが、どこでも買えるわけではないという事情もある。
ただ、1997年頃に赤ワインブームが日本に波及する以前は赤よりも白が好まれていたのは、食文化的な嗜好からも自然に見える。赤ワインブームでワインの消費量は年間一人当たり1ℓ前後から約2ℓ近くまで増え、ポリフェノールと健康志向がワイン市場の拡大に貢献したことは間違いない。しかしその一方で、急激な赤ワイン受容の過程で生じたひずみを引きずったまま、日本のワイン市場は現在に至っているのではないか。ワインを食文化の一部であるとするならば、日常の食生活の視点から飲むべきワインを考えた時、IWSRの予測とは逆に辛口と中辛口の白ワインは大きく成長するポテンシャルがあるはずだ。
ドイツでも近年赤ワインの生産が増え、1980年頃は約1割に過ぎなかった赤ワイン用ブドウの栽培面積が2010年は約35%まで伸びているのは、やはり1990年代の赤ワインブームとともに、近隣諸国の食文化が影響している。とりわけ70年代にイタリアから持ち込まれたトマトソースのパスタとピザは、今やカリーヴルスト(カレーをかけた焼きソーセージ)やトルコ系移民の流入とともに普及したケバブと並ぶドイツの定番料理である。トマトソースやピザを食べる時にはやはり赤ワインが欲しくなるが、伝統的なドイツ料理----例えば白アスパラ、ベーコンや玉葱と炒めたジャガイモ、塩漬けした豚すね肉の煮込み、ザウアークラウト、ニジマスのソテーなど----には、やはり白ワインが欲しくなる。その土地の気候と文化に育まれた伝統料理とワインは馴染み、寄り添い、調和する。そして食文化に見ることができるように、伝統は一定不変ではなく、受容と変容を重ね、育まれてゆくものである。逆に、変化を続けないものは停滞し、疎外され、滅びるだろう。現在の日本市場におけるドイツワインは、その一歩手前にある。仮に上記のIWSRの予測が当たっているとするならば、白ワイン市場全体の縮小に伴って、ドイツワインはさらに苦戦することになりそうだ。現状では消費者に与えられたドイツワインの選択枝は狭く、ドイツワイン基金の資金不足から宣伝広告も限られ、認知度は低く、日本語による新鮮な情報も乏しい。ドイツワインを売るのは容易な状況ではないが、新しいものを紹介し、市場を変えて行くことで、息を吹き返すチャンスはあるかもしれない。
いずれにしても、ドイツワインに限らず日本ではもっと辛口白ワインが飲まれるべきだ。白ワインは軽さだけが取り柄ではない。もちろん、欧米人に比べて遺伝的にアルコールに弱い我々日本人には、アルコール濃度の低さは酔い心地の上でもメリットとなる。だがそれ以上に白ワインには、余分なものをそぎ落として純化した味わいの中に、気候や土壌の影響がストレートに表現されている。そして赤ワインと同様に、いや、赤ワイン以上に奥深く含蓄がありながら、脇役に徹することも出来る。一方、赤は白よりも見通しが効かない。飲み手と料理を選び、時に容赦なく相手を拒絶する。自己主張が強く、わがままで、なだめすかすのに時間がかかる。そのぶん波長が合った時の喜びは大きいが、毎晩付き合っていたら疲れてしまう。
白ワインには、戸外を吹き抜ける5月の風が似合う。爽やかに薫るリースリングやグリューナー・ヴェルトリーナー、あるいは甲州の生き生きとして繊細なワインは、日本の食文化の中でもっと広く愛されてしかるべきだ。願わくば、輸入・国産に限らず、まずは手軽な価格で素直に美味しい辛口白ワインが増え、赤ワイン以上に親しまれるようになってほしい。そうして初めて、より高品質で個性的なドイツの辛口白ワインが、正当に評価される余地が生まれるのではないだろうか。
北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」(http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。