ドイツワイン通信 Vol. 7


2012.04    ワインライター 北嶋 裕

リースリングとペトロール

 モーゼルに住んでいた時はそれほど意識しなかったのだが、日本をはじめ世界では、ペトロール香がリースリングの典型的な特徴と言われているようだ。だが、私は10年以上毎日のようにリースリングで飲んだ暮れていたけれど、石油を思わせる香りには滅多に出会わなかった。石油=鉱物=スレート粘板岩=リースリング、という連想が一般的なのかもしれない。しかし、熟成して果実味が枯れつつあるリースリングにペトロール香を感じることはあっても、リリースされて2, 3年以内の、まだ若々しさが残ったリースリング、つまり市場に出回っている大抵のリースリングに、リンゴ、桃、アプリコット、白い花やパイナップル、バナナに香草を感じても、あからさまに鉱物を思わせる香りは稀であった。

 だから昨年5月、ローヌのミシェル・シャプティエがデカンター誌のインタヴューに「リースリングにペトロール香があってはならない。それは醸造上の失敗の結果だ」と言い切り、ぺトロール香はブレタノマイセスと同様、長年にわたり続けられてきたワインの欠陥がワインの個性として受け入れられている、とんでもないことだと語っているという記事(http://www.decanter.com/news/wine-news/525144/petrol-smell-in-riesling-a-mistake-chapoutier)を読んでも、別段驚かなかった。何をいまさら、と思ったものだ。だが、先日東京でリースリングを扱う輸入業者25社が出展した『リースリング・リング』の試飲会でオーストラリア、ニュージーランドなど新世界のリースリングを試飲して、若い生産年にもペトロール香が多いことに気付いた一方、オーストリア、アルザスの旧世界の生産国のリースリングには、それがほとんど感じられなかったのも印象的だった。考えてみれば、日本で手に入るリースリングの大半が新世界産だとしたら、確かにペトロール香が品種の特徴と言われてもやむをえまい。だが、それは世界共通のリースリングの個性ではないことを、ここで改めて強調しておきたい。

 ペトロール香の正体は1,1,6-トリメチル-1,2-デヒドロナフタリン(略称TDN)という物質である。葡萄の果皮に生成されたカロチノイドの分解により生じるが、カロチノイドは大抵は黄色、オレンジから赤みがかった色をしており、葡萄が直射日光や高温から自らを守る為に果皮に蓄積する。完熟したリースリングが黄金色に染まるのもカロチノイドの作用だ。TDNの濃度が高いとペトロールやケロシンの匂いとなるが、微量ならば熟成したリースリングの、ドイツ語で『フィルネ』firneと呼ばれる繊細な香りとなる。他の品種でもTDNは生成するが、リースリングはカロチノイドの濃度が高い一方で、ゲヴルツトラミーナーやマスカット系品種に比べるとテルペン系の華やかな香りが控えめな為、TDNが目立ちやすい。これが、リースリングにおいてペトロール香が品種の個性と誤解される前提条件となっている。

 そしてまた、ペトロール香は暑く乾燥の厳しい産地で栽培されたリースリングや、2003年のように猛暑の生産年の収穫に現れやすい。また、『リースリング・ルネッサンス』(2004年刊)を著したフレディ・プライスによれば、オーストラリアのリースリングは冷涼な気候のリースリングに比べて一般に成熟期間が短く、果皮もまた、例えばコーナワラのリースリングはモーゼルのものより約7倍も厚いという。さらに、平坦かつ広大な畑ではハーヴェストマシンで収穫することが多いそうである。このいずれもがTDNの生成を促進する条件である。そしてまた、貯蔵温度が高いとペトロール香は現れやすく、15℃前後では数年かかるところ、30℃前後だとわずか数か月から半年で明瞭になるという。

 新世界のリースリングが多く、貯蔵温度も高くなりがちな日本は、ペトロール香のリースリングに出合う確率は世界一高いかもしれない。一方で、ニュージーランドやオーストラリアでは、ペトロール香は高品質なリースリングの証として高く評価される傾向がある。シャプティエの言うところの「とんでもない」状況なのだが、蓼食う虫も好き好きと言うべきかもしれない。

 考えてみれば、無味無臭であるはずのミネラルがワインの個性を形作っているというのも、興味深いことである。白ワイン、とりわけシャルドネにおける火打石の香りを故・富永敬俊博士はベンゼンメタルチオールと同定したが、これも土壌のミネラルとはほぼ無関係に生成する。だが一方で、石灰質の土壌に育つ葡萄からは、確かに石灰を思わせるカルシウムやカリウム、あるいは塩気を含むミネラリティに富むワインが出来る。フランケンのユリウス・シュピタール醸造所の経営責任者ホルスト・コレシュによれば、石灰質を多く含む土壌には多量の遊離炭酸カルシウムがあり、これが多くの陽イオンをワインにもたらし、クリーミーで長い余韻となる。また、葡萄樹は根から酸や塩を分泌して岩石のミネラル分を溶解して吸収し、それがワインの個性を形作るのだ、と指摘している。ところが、UCデイヴィスのキャロル・メレディス博士は「土壌に含まれるミネラルが、ワインの味の中に表現されるとは思わない。それは生物学的にほとんど不可能だから」と語っている(ヴィノテーク2009年4月号、特集『ワインのミネラリティはどこから?』11, 19, 33頁)。

 してみると、4月にリースリングと産地の個性をテーマにしたセミナーで紹介させて頂いた、土壌とアロマの関係----青色スレート粘板岩からは青りんご、赤底統から香草、雑色砂岩からアプリコットなど----は、一体どうなるのだろうか(Christina Fischer/ Ingo Swoboda, Riesling, Hallwag 2007, 84頁以下)。そしてまた、ザールのリースリングにしばしば現れる、あの繊細でかぐわしい桃の香りは一体どこからくるのだろうか。

 確かなのは、リースリングは張りつめた透明感と繊細さが持ち味の葡萄品種だということだ。シャルドネと異なり、マロラクティック発酵で酸味をなだめることも、バリック樽で熟成してヴァニラのアロマを付加することも、リースリングには相応しくない。ごつごつとした岩が積み重なって水はけが良く、養分を含む土壌もわずかなため地下深くまで根を伸ばし、基底岩盤の裂け目にその先端を割り込ませ、なんとか生きる糧を得て育ったリースリングには、余計なものをすべてそぎ落とした様な、純粋さと高貴さが備わっている。その意味でリースリングは禁欲的なワインであり、ドイツそのものと言ってよい。トーマス・マンは1945年に『ドイツとドイツ人』という題で行った講演の中で、ドイツ人気質について以下のように語っている。

 「繊細さ、心の深遠さ、非世俗的なものへの没入、自然への敬虔さ、思想と良心とこの上なく純粋な真剣さ、要するに高度な抒情詩の持つあらゆる本質的特質が、この中(『内面性』という言葉で表されるドイツ人の最も有名な特質)で混じり合っております」と。(青木順三訳、岩波文庫29頁)

 地中の奥深くに活路を求めて岩盤に到達し、そこから純粋自然な、ドイツ語で言うところのナチュアラインNaturreinな、昇華されたがごとき繊細な果実味とミネラリティでテロワールを表現するリースリング。ペトロール香はその本質的な個性ではなく、暑さと乾燥、あるいは純粋な果実味を枯れさせる過酷な環境による、憔悴の痕跡なのではあるまいか。私にはそう思えてならない。

 

北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」(http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。

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