ドイツワイン通信 Vol. 5


2012.03    ワインライター 北嶋 裕

所感 ――C.ブッシュ氏セミナーの通訳を終えて――

 2月2日にクレメンス・ブッシュ氏が来日した際のセミナーで、通訳を務めさせていただいた。醸造家の通訳はドイツで何回か経験があり、帰国してから久しぶりにドイツ語が使えるとあって意気揚々と臨んだのだが、通訳の最中脳裏を去来したのはソフィア・コッポラ監督の映画『ロスト・イン・トランスレーション』のワンシーンであった。あれは確か主役のビル・マーレイがCMの撮影の為に東京に呼ばれて、スタジオでディレクターに色々と指示されるのだが、通訳がそれを一言でまとめてしまう。ビルは「何、それだけか? もっと何か言っていなかったか?」と驚く場面だ。必死にメモをとりながら自分なりに理解して日本語に言い換えたのだが、正確に伝えきれなかった場面もあった。

 例えば、ブッシュ氏はこう言った。「1974年に父の病気のため醸造所で働き始めた。本当は海外の醸造所を見聞したかったのだが、出来なかった」。それを私は「1974年に父の病気で醸造所を継いだので、海外の醸造所を見に行けなかった」と訳したように思う。セミナー後に本人から聞いてわかったのだが、父上はその後健康を回復し、ブッシュ氏が醸造所を正式に継いだのは1990年のことである。また「醸造所で働き始めた翌年、早速ビオに取り組み始めた」と訳したと思うが、セミナーの後「そんな早い時期から凄いですね」と言うと、ブッシュ氏は「農薬はすぐに止めたけど、合成肥料は1979年まで使っていたから、最初からビオという訳じゃないよ」と答えるではないか。プロレスラーのテリー・ファンクに似た髭面を見ながら、私は参加された方々を思い浮かべ、冷や汗を三斗ほどかいた。後悔先立たずと言うけれど、通訳の際には事前に入念に打ち合わせるべし、と肝に銘じた。

思い込みは誤りのもと
  あれから色々と通訳について思いを巡らせているのだが、誤訳の原因の一つに、思い込みから来る短絡思考があるのではないかと思う。例えば、以下の文を読んでほしい。

「この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか

 にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば

 じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて

 わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。」

(参照: http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/08/news021.html

 少し読みにくいが、意味はすぐにわかるだろう。文章は単語の最初と最後の文字さえあっていれば、読めてしまうものなのだ。これは、日常生活において文章を理解する際、推測から判断する部分が少なからずあることを示唆している。つまり、それまでに蓄積された経験や知識から導かれる予測は、我々が思っている以上に重要な役割を担っているのだ。とりわけ外国語を理解する際には、この予測機能がフル活用され、時として誤解につながることもあるのではないか。

 なんだか言い訳じみて恐縮なのだが、経験の蓄積と、それに基づく予測が、対象の認識と判断には大きく作用している。それはまた、認識の主体が置かれた状況や立場によっても、経験可能な領域やものの見え方が異なり、その結果導かれる行動や思考も変わってくる。例えばドイツに住んでいれば、ドイツやヨーロッパの政治経済や事件がメディアから常時流れてくるが、日本だと日本国内やアメリカの出来事がもっぱら報道される。住む場所によって、世界の見え方がまるで異なるのだ。与えられる情報や身近な体験から関心の対象が限定され、周囲の人々と共通の話題として取り沙汰される。つまり、個人的な体験とともに、供給される情報が世界観を構築し、個人の行動やものの見方・考え方を規定する。それが経験の蓄積となり、先入観や思い込みを形作っていく。

国によって異なるドイツワインの受けとめ方

 例えば、ドイツとアメリカではワインの嗜好が異なる。それぞれの国の風土と文化と、ワインの場合はとりわけ食文化が嗜好や価値観を形作っている。ソーセージ、ハム、チーズ、ザウアークラウトやドイツパンなど、塩気や酢の効いた保存食では豊かなヴァラエティを誇るドイツでは、それらと相性の良い繊細で酸味とミネラリティの豊かなワインが好まれ、一種の奥ゆかしさを伴う美しさを高く評価する傾向がある。とりわけ猛暑で高アルコール濃度のワインが多数醸造された2003年以降、濃厚さより繊細さを求める傾向が強まっている。一方、アメリカのワイン評を見ると、口中で爆発的に広がるエキゾチックなフルーツ感と、ひたすら続く長い余韻のある濃厚な甘口に、ドイツよりも高い点数がつく。インパクトのある甘口ワインに甘いのがアメリカのワイン評の傾向であるが、それはまた、大排気量のスポーツカーを創造し愛好するアメリカの文化の表出でもあるように思われる。

 さてそれでは、日本におけるドイツワインはどうか。野菜や魚を塩や酢で調味した伝統的な食文化が息づく日本では、やはり塩気や酸味が主体のドイツの伝統的食文化と共通する味覚的要素があり、ドイツワインは素直に馴染む条件が整っているのだが、意外に受け入れられていない。むしろ「甘い」という先入観とともに、「わからない」「むずかしい」というイメージに支配されているのではないだろうか。逆に、甘いという思い込みや「甘口こそドイツワイン」という嗜好が「ドイツワインを知っている」という自己認識となり、一種の固定観念となってはいまいか。本当はドイツワインを知らない自分を認めたがらない、既存の価値体系を壊したくないという自己保存への欲求が、ドイツワインを遠ざけ、わからなくしている面がないだろうか。

 ボルドーやブルゴーニュ、シャンパーニュは事情が異なる。これらには豊かなヨーロッパや美食の国フランスのイメージが強く投影され、実際に飲むまでもなく、ワイン本を読んだり聞いただけで特徴を把握し、分かったような気になってしまうほどだ。ことに日本ではイメージや先入観の働きは絶大で、疑似体験として行動を規定するとともに、既存の枠組みから抜け出すことを困難にしている。

 現在のドイツワインを理解するには、人並み外れた柔軟な心と旺盛な好奇心が必要なのかもしれない。それが新たな経験の蓄積を可能にし、やがて先入観とイメージを変えていくことになるだろう。いずれにしても、先日のセミナーでクレメンス・ブッシュ氏のメッセージをどこまでお伝えすることができたかと、反省することしきりであった。通訳の責任の重さを痛感した次第である。

 

北嶋 裕 氏 プロフィール:
ワインライター。1998年渡独、トリーア在住。2005年からヴィノテーク誌にドイツを主に現地取材レポートを寄稿するほか、ブログ「モーゼルだより」(http://plaza.rakuten.co.jp/mosel2002/)などでワイン事情を伝えている。2010年トリーア大学中世史学科で論文「中世後期北ドイツ都市におけるワインの社会的機能について」で博士号を取得。国際ワイン&スピリッツ・ジャーナリスト&ライター協会(FIJEV)会員。

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