2013.7 合田泰子
《合田泰子のワイン便り》
再び、グルジア、でなく、ジョージアへ
おかしなタイトルのように響くでしょうが、この国の政府も生産者たちも、口をそろえて「私たちの国と場所をグルジアではなく、ジョージアと呼んでほしい。グルジアは、ソヴィエト時代にロシア人がつけた呼称だから」といっています。そこで私も、ここではジョージアと呼ばせていただきます。
そのジョージアは遠い。首都トゥビリシへは、ミュンヘンかウィーン、イスタンブールから一日に一便飛んでいます。乗り換え時間を入れると東京から26時間、いずれのフライトも早朝3時にトゥビリシに着く。金曜日なら、週に一度パリからジョージアン・エアラインの直行便で、11時10分発のトゥビリシ現地時間17時50分着、時差を考えるとフライト時間は4時間40分。 これが一番楽そうだけれど、うまく金曜日に旅程がたてられないのが悩みです。
昨年11月末の一度目のジョージア訪問は、わずか36時間という短い滞在でした。日中はカルトゥリにあるイアゴ・ワイナリーのマラーニ(セラー)を訪問し、夕方にはクヴェヴリ・ワイン協会(甕仕込みワイン協会)が運営するワインバー「アンダーグラウンド」でラマズ・ニコラズ(Ramaz Nikoladze)とズラブ・トプリズ(Zurab Topuridze)に会い、運よく街に来ていたガイオス・ソプロマズ(Gaioz Sopromadze)とフェザンツ・ティアーズ醸造所のジョン・ヴルデマンに出会うことができました。翌日グリアにあるズラブのマラーニを最短時間で訪問して、黒海沿岸のバトゥーミ空港から帰りました。この時は、ジョージアの造り手の方たちも、ラシーヌがどれほどジョージア・ワインと本気で取り組むかわからなかったし、ラシーヌも現地の事情とワインの素晴らしさを理解しつくしていなかったので、ズラブの訪問は、留守を預かっている職人のお二人に応対していただきました。
この訪問で、私は新しい味わいの世界が開けたことを実感しました。その感動を持ち帰って、塚原と話し合った結果、ラシーヌは真剣にジョージア・ワインを輸入することになったのです。また、ジョージアの方々からも、日本に新しい道を造ってくれてありがとうと感謝され、少量ずつですがオファー(6名の造り手から、計2900本)をいただくことができました。後日談として聞いたことですが、アンダーグラウンドで飲んでいた時の私があまりに「嬉しそうで、おいしそうな表情だった」ことと、社内でいつも実践しているバーコード削除による味の違いの指摘に驚いたため、取引を決めたとか。ジョージアのほとんどのワインは、バックラベルにバーコードがついています。ラシーヌでは、造り手にバーコードを絶対につけないように指示していますが、サンプルなどでついている場合は、必ず削除してテイスティングしています。理由詳細は、塚原のエッセイ62号(2012年8月)をお読みください。
(ワイン原論 http://www.racines.co.jp/library/tsukahara/62.html)
ズラブ・トプリズ/イベリエリ・ワイナリー訪問記
そこで、間をおかずに、二度目のジョージア訪問。本年5月31日フランクフルト・ミュンヘン経由でトゥビリシに発ちました。ところが、なんと毎時1本飛んでいるフランクフルト-ミュンヘン便が、3本もキャンセルされたので、トゥビリシ行きに間に合わず、24時間ミュンヘンに足止めとなってしまいました。トランクは、どこの空港に止められているかわからず、着の身、着のままのミュンヘン散歩。雨が激しく降って、皆冬のコートを着ている街を、一人夏服で歩いて寒さを実感したあまり、ブドウの成育を心配しました。ズラブの車に乗って、350km離れたグリアへ。
1日目の予定だったニキことニコロス・アンタズー(Nikoloz Antaze)の訪問ができず、6月2日8時半からワイナリー訪問を開始。厳しい暑さで、ブドウの葉もどんどん大きくなり、雑草が勢いよくのびていました。ズラブも名産の大きな藁帽子をかぶり、真昼間の畑を歩きました。
ズラブのイベリエリ・ワイナリーのある「グリアは、サメグレロと並ぶ最古のワイン産地であるが、グリアとサメグレロのワインは、市場に出回っているものは非常に少ない。が、2011年にパイオニア(すなわちズラブ)が現れた」(出典:Malkahz Kharbedia, Georgian Wine Guide 2012)と、ジョージアでは紹介されています。石油ビジネスを営み、アゼルバイジャンやブルガリアなどに頻繁に出張するズラブは、「ワインを造るためには、他の仕事をしないとね」と、収入の多くをワインにつぎ込んでいます。
幼いころは、化学者であり農学者であった祖父のもとで、自家用のワインを造るブドウ畑で作業をするのが大好きでした。大学では考古学を学んだものの、1980年当時はソヴィエト支配下の時代で、直ちに職業を選ぶこともできず、再び大学へ。トゥビリシにあるブドウ栽培と醸造専門機関の研究所で学びました。その頃は、クヴェヴリでの醸造やジョージアの伝統になど、まったく興味がなく、フランスのワインが最上だと信じていたとか。1990年代の終わりごろ、ジョージアの伝統的なワインの素晴らしさに気づき、2003年に夫人の故郷のサクヴァヴィス村に家と畑を買い、チュハヴェリを植えました。「50年以上前は、ワイン造りはすべてナチュールだった。それが、ソヴィエト時代に伝統品種を抜き去って、量産型のインターナショナルな品種に植え替え、畑は針金を使ったパリサージュに変えられ、大量の農薬と化学肥料が施された。今なお土壌汚染が深刻で、有機栽培への転換がむずかしい。」
20011年にズラブは、村に残っているチュハヴェリの栽培家をたずね、10haにも満たない畑を一軒、一軒たずねてブドウを買い、自分の栽培する0.07haのブドウとあわせて、醸造しました。そのワインを友人がコンクールに出品し、金賞を受けたのです。「コンクールというのは、どこの国でも、クオリティで選ぶものでなく、コマーシャル上の観点から選ばれることが多く、信用できないものだけれど、どうしてあなたのワインが選ばれたのかしら?」と尋ねたら、「それは、チュハヴェリ酒が、ジョージアにとって特別なもので、もう絶えてなくなったと思われていたからだよ。それも、特別おいしいチュハヴェリだったんだ。それに、他にコンクールにチュハヴェリ酒はなかったからね。最近大手が盛んにチュハヴェリを買い集めに来るけれど、僕は村の人たちと共に生きている。」
高貴品種チュハヴェリは、浸漬せずにすぐ搾汁すれば白ワインになり、長く浸漬すれば濃いロゼ―赤ワインになります。ソヴィエト時代にほぼ絶滅しましたが、サクヴァヴィス村には古い樹が残っており、ズラブは複数の農家と厳格な有機栽培での契約栽培をしています。各農家の栽培面積は大変小さいのですが、その中でも最大面積0.08haを所有するダヴィッド・コビズDavid Kobidze/エルケティ村とヌグザル・シハルリズNugzar Sikharulidze/ブキストゥシヘ村が中心となって、有機栽培の管理と監督をしています。10kg、30kgと、小さな単位でブドウを集めて、今のところやっと生産本数5000本です。
また、ズラブにはきわめて優秀な古老というべき栽培・醸造家メヴルド・ツィンツァズMevlud Tsintsadze (写真・右)とダヴィッド・ハベイシュヴィリDavid Khabeishvili (写真・左)の2名が、栽培に目を光らせているので、彼らの存在が、《チーム・チュハヴェリ》ともいうべきワイン造りに大きな役割をしています。
「今も、農業指導機関が、農薬や化学肥料を農家に配り、使用を指導している。困ったものだ。でもダヴィッドが、しっかり栽培を管理してくれるから。」 (ズラブ談)。
とうもろこしの皮を使ってアタッシェ(ブドウの枝を固定)している。
ズラブは、標高400mの山中にテラス状の畑を4ha開墾し、今年ブドウを植えたところ。「平地にたくさん空地があるのに、なぜこんな山の中に畑を作ったの」と聞くと、「この場所は、標高が高いので、ソヴィエト時代の農薬散布と化学肥料の害がなく、風が強いので病害もない。ここでは本当にピュアなものが造れるからね。昔、まだベト病がなかった時代、この地方では、大木にブドウを這わせて栽培していたのだ。そのほうが、ブドウにとっても自然で良く、樹によってはクレムラという抗菌作用のある物質をもっていることがあり、それがブドウを病気や虫の害から護った、でも数メートルの高さまでのびたブドウを収穫するのは大変で、今の栽培方法になってきた」。
クヴェヴリ醸造を支える偉大なクヴェヴリ職人、「ザリコ・ボジャズ」
ジョージアのワイン造りを支える、クヴェヴリ(甕)の工房は、畑と同じくソヴィエト時代に破壊され、わずかな工房が残っているのみ。そのなかで名人と言われるのが、ザリコ・ボジャズZaliko Bojadze。
「甕が厚く、焼成温度が高温なので、ザリコの甕で造ると仕上がりがきわめていい。今後はザリコの甕だけにするよ」と、ズラブ。現在13のクヴェヴリがあるマラーニから、さらに温度の低い場所に新しいマラーニを建設中で、ひたすら高品質のワイン造りに向かって邁進するズラブのワインは、これから本当に楽しみです。
ズラブから「日本にはいいものを出したいから泰子、いいと思うものを選んでいいよ。」と言っていただき、3つの甕を選ばせてもらいました。(写真右の甕に、「y(= yasuko)」の文字)
選んでみたら、二つは、ザリコの甕でダヴィッドとズラブのブドウだけで醸造したもの、一つは3種類のブドウを混醸したものでした。12月末に到着の予定です。
ジョージアでは、村中に牛、ヤギ、鶏、豚があふれていて、ひよこはダッシュで走り、少し大きくなったひよこは、1mほどの窓の縁に飛び上がって、外に脱するといった具合だから、ジョージアでご馳走になる鶏肉のローストがおいしくないわけがありません。村中にあふれる動物の侵入を防ぐため、ブドウ畑と農園は厳重に柵で囲まれています。
それにしても、昨年の暮れ以来、ずっとジョージアと仕入れのやりとりに携わり、また空輸での輸送、社内でのディスカッションと
テイスティングの繰り返し、資料作成、東京と大阪での3回にわたるお披露目試飲会……と、まさにジョージア漬の毎日でした。ので、ズラブにしても、ラマズにしてもとても古い友達のように思え、緑豊かなジョージアの農村風景は心が穏やかになります。彼らとの英語でのメールのやりとりは、本当に楽しく、瞬時に心のこもった返事が返ってきます。ですから、まだ知り合って半年なのですが、ずっと長く仕事をしてきているように思えるのかもしれません。
今回の旅では、ズラブの後、イメリティ地方の7人とカルトゥリ地方のイアゴのマラーニを訪問させていただきました。次回は、Ramaz Nikoladze、Didimi、Manuika Chkheidze、Gaioz、Amiran Vepkhvadze、Archil Guniava Gogita Makaridze’s の訪問記録をお届けします。
合田 泰子