『ラシーヌ便り』no. 85

2012.11  合田泰子

《合田泰子のワイン便り》

 この夏は、9月末まで本当に暑かったですね。ようやくこのごろ夕方4時過ぎから5時にかけて、暗くなる前の時間がとても心地よく、心が落ちついてゆったりと考えることができるように思います。5時半近くになると、真っ暗になり、秋の夕暮れの早さを感じます。素敵な季節に、心ゆくまでワインを楽しみたいと思いますが、それにしても、ことのほか忙しい数ヶ月でした。とりわけ10月は大切な行事がぎっしり詰まったひと月でした。あまりに忙しすぎて自分を忘れそうになりますが、次々と大切で素敵なワインが数々に入荷することが、大きな励みになっています。

 10月24日深夜に発ち、今、シャンパーニュに来ています。さんざん悪い成育情報が伝えられた2012年でしたが、収穫が終わってみれば、シャンパーニュでは収量こそ少ないですが、大変良いヴィンテッジとなりました。こんな言い方をすると、まるで悪い年のイメージをとり繕うための情報操作のようですが、事実は素晴らしい収穫ができたと複数の造り手から報告が届いています。

 ジェローム・プレヴォーでは、2012年は過去最上の年となったと聞いて驚いています。結果としては嬉しいですが。ジェロームによると、「7月の中旬から好天が再開し、収穫中は、天気よく、暑くて、夜になって気温がさがり、寒いくらい。結果、予想をはるかにこえる良い結果となった。2003年とおなじくらい糖度が上がり、かつ酸がしっかりある。成育環境としては、最悪の年だったのに、ブドウ樹はよく耐えてくれた。」
 また、ブノワ・マルゲでも、ベト病にやられたブドウ粒は早々に落ちて、残ったブドウはとても健全に熟し、収量は少ないがとてもよい結果だったと聞きました。 ブノワ・マルゲからは、ようやく待望のエルヴェ・ジェスタンと共作の特別キュヴェが来春リリースされる予定です。熱烈なファンの方々から、「いつ入荷するのか」という問い合わせを多数いただいておりますが、もうしばらく楽しみにお待ちください。

 さて、ご報告です。
1) ファン・フォルクセン醸造所の
  ローマン・ニエヴォドニツァンスキー氏、初来日

 10月5日に到着したローマンの第一声は、「日本におけるドイツワインの古いイメージを払拭し、新しい扉を開き、ドイツワインのルネッサンスを伝えるために来日しました。」
 京都と東京でセミナーを開きましたが、ご出席いただきました方々には、お忙しいなかを本当にありがとうございました。収穫を翌週に控えた、多忙な中での来日でした。ローマンについては、まだまだ知らないことが多かったことを、来日期間中に痛感しました。また、ラシーヌの考え方や方針、どのような仕事の仕方をし、どのようなワインを扱っているか、日本のマーケット全般と、ラシーヌのお客様を知っていただくことができた、貴重な一週間でした。

 ローマンの話のなかで、特に興味深かったことをお伝えしましょう。
 1990年代後半に、ローマンはワイナリーを創設経営することを考え始めました。ドイツ最大のビール・コンツェルンであるビットブルガー社の創業者の娘を母とし、原子力の研究者を父に持つローマンにとって、一族の経営する企業で働くのは簡単なことでした。が、「人の会社で働くのでなく、自分で新たな仕事を造りだしたい、それが自らの夢を実現することだ」と考えていました。古文書蒐集が趣味の父の影響を受け、古い文献を読むうちに、100年前ではモーゼル地方のワインが、フランスの五大シャトーやシャトー・ディケム、ル・モンラッシェよりも評価が高かったことを知ります。また、大学で経済地理学を学んだとき、教授から「ワインを造るならば、これからはより冷涼な地域を選ぶことが大切だ。温暖化は進んでいる」とアドヴァイスを受けたとのことです。1999年、幸運にも、モーゼル最上の畑であるシャルツホーフベルガーを含む多くの貴重な畑を持つ、歴史的なファン・フォルクセン醸造所を購入することができました。購入時は13haでしたが、現在は51ha。ローマンがすごいのは、ただ畑を広げたのではないことと、醸造所を購入する前に、すでに大樽を発注していたことです。また、最近では一族の所有する森のオークの樹で、ジャーコモ・コンテルノなどの樽を造る名職人に大樽製作を頼んでいます。目指すクオリティの実現のためには、いっさい妥協をしないのが、ローマンの徹底した方針なのです。

 彼のワイン哲学は、「斜面にある最上のテロワールの畑で、昔の優れた遺伝子をもっているブドウを育て、低収量をつらぬき、野生酵母でもって大樽発酵・熟成をさせること」 です。ドイツには畑の格付けがないので、グラン・クリュ、プルミエ・クリュの考え方はありませんが、古文書を調べ、プロイセン時代の税金徴収のために作成された8段階の畑の評価地図をもとに、最上の畑を買い足していったのです。斜面にある畑でのブドウ栽培は、とてつもなく手間がかかるため、生産コストが販売価格を上回ってしまうため、2000年頃は、多くのワイナリーが倒産し、斜面の畑を手放していました。そのような時勢、資金的な背景と、さまざまな幸運に恵まれたといえばその通りです。けれども、《自身で定めた目標の実現のために、妥協を排して全力を注ぐ、志の高い企業家》であるというのが、来日中に受けとめたローマン像です。
 このたび、数々のバックヴィンテッジのティスティングとともに、ローマンの10年の歩みを深く知ることができ、このワインに出会えたことの幸せを深め、しっかりとブランドを育てていかなくてはいけないと責任を感じています。

2) 茂野 真さんの新たな旅立ちにむけて
 六本木「祥瑞」(ションズイ)のシェフ、「シゲ」こと茂野真さんが、10月20日・創立20周年の日に店を辞め、京都での開店をめざして準備中とのことです。9月30日、表参道の「フェリチタ」では、シゲさんの旅立ちを祝う人が大勢集まり、送別ワインパーティーが開かれました。
 2001年だったでしょうか、フランスからビザの取得のため帰国し、しばらく銀座のビストロで働くことになった茂野さんを知り、クルトワ、ピエール・オヴェルノワ、シュレール、マルク・アンジェリ、マルセル・リショー、レオン・バラルなどをたくさんお取引いただきました。その後、パリの「メゾン・ド・クルティーヌ」を経て、「セヴロー」で素晴らしい仕事をされたことは皆さんご存知のことでしょう。パリでは、たくさんの料理人の方が仕事をしていますが、労働ビザを取得して仕事ができるようになるためには、腕のたしかさだけでなく、誠実さと人柄が伴わなくては困難なはずでしょう。出張時にパリでお目にかかるたびに、レストラン関係者、カーヴ・ド・パピーユの人々、素晴らしいヴィニュロンたちと強い絆が築かれていることを感じ、とても嬉しかったことを懐かしく思い出します。まっすぐで、自分の意見を持ち、人の意見にまどわされず、ワインについても、いいワインを選び、ほれ込み、熱く語るまっすぐな姿が通じて、パリのワイン人たちとの素晴らしい関係ができあがったのだと思います。 ションズイ時代には、シゲさんの勢いあふれる料理が加わり、毎晩多くのファンが集まりました。東京からシゲさんがいなくなるのは、寂しいのですが、京都行きが楽しみになりました。京都で、素敵な空間とご縁ができることを信じ、出発を心からお祝いしたいと思います。


合田 泰子

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