『ラシーヌ便り』no. 62

2010.11  合田泰子

《合田泰子のワイン便り:番外編

 ワインと音楽に見られる誤解と不幸

ワインと音楽は、人類が達成したすばらしい文化のひとつであり、誇りであると思います。が、そのどちらも、意図的であるかどうかは別として、今日さまざまなノイズにまみれ本来の姿から遠ざかっているために、純粋にその素晴らしさを味わうことが妨げられていることが多いと感じます。私たちは日々さまざまな病原菌や電磁波などに取り囲まれているように、人生はノイズや誤解、はては悪意や中傷などに満ちていますが、そんなことをいちいち気にしていては、大事を見失うおそれがあります。遠くの理想を見つめて常に意識していれば、そんな些細なことに拘泥せずに、前進できるのではないでしょうか。本来のあるべき姿、理念像だけを求め、ノイズに踊らされないように自戒したいと思っています。

ワインに対する誤解と偏見は、内外のワイン市場はもちろん、地元フランスでも変わらないようです。造り手の仕事ぶりと考え方をゆがめず伝え、よいコンディションでグラスにまで届けることは、流通に働く私たちの仕事です。ワイン業界のなかには、完璧な流通機構を謳い文句にしているところがありますが、ワインにも人生にも完璧はありえず、どこかに破綻があるものです。ワインの場合、味わってみて端的にワインのコンディションにその破綻が表れるため、結果からして破綻の原因を推測することは、そう難しくはありません。私たちのささやかな経験からして、ワインが良いコンディションで消費者の手元にまで届き、その絶妙な味わいを楽しめることは、本当にむずかしいことだと、しみじみ思います。実像とは無縁な飾り立てた情報だけがむなしく飛びかっているようなことが多いのです。ワインが傷んでいれば、本来の味わいはゆがめられてしまい、造り手の仕事の意味とワインのクオリティは正しく伝えらず、誤解だけが残りかねないのです。

* 信時潔
音楽にも同じような誤解と不幸があることと、最近出会いました。

先日、国分寺にあるいずみホールで、「信時潔メモリアルコンサートIV」がありました。信時潔(のぶとききよし1887~1965)は、滝廉太郎、山田耕筰に並ぶ近代日本音史における代表的作曲家の一人として重要な人物です。信時潔は大阪中之島のキリスト教会に生まれ、文部省在外研究員として第一次世界大戦後のドイツに留学、のち、母校・東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部)に作曲科を創設し多くの後進を育成、「海ゆかば」をはじめ多くの合唱曲や独唱曲の名作、ピアノ曲を作曲、生涯で1000曲を越える校歌、社歌、団体歌等を作曲しました。出身校の校歌の作曲家として親しみのある方もいらっしゃるでしょう。

「海ゆかば」は、日中戦争拡大直後に作曲され、戦時中、兵士出征の折や戦没者を迎える音楽として、戦争末期に玉砕や戦死者ニュースのテーマ音楽のごとくに使われました。

企業のニューズレターという場で、人の悲しみの記憶に深くかかわる音楽をテーマについて書くことは、控えるべきかもしれません。しかし、素晴らしいコンサートであったことと、作品が生まれた時代と作曲者を、新たな視点から見つめる機会を得ることができ感銘を受けましたので、お話したいと思います。

パンフレットによれば、「国分寺市は、作曲家・信時潔が半生を過ごしたゆかりの地。戦後、様々な思いのなかで演奏する機会が少なかった信時の曲を、純粋な音楽として聴き、魅力を問いかけたい。また、この曲を見つめ直し、平和の尊さを考える機会としたい」と主催者は語っています。

演奏の間に生誕の地である大阪・中之島の大阪北教会・森田幸男牧師の講演がありました。「海ゆかば」については、はじめは批判的に語らざるをえないと考えておられたそうですが、キリスト教者の視点で、次のようにお話くださいました。


* 「音楽は野の花のごとく」(タイトル)
信時潔は音楽について「音楽は野の花のごとく、衣装をまとわずに、自然に素直に、偽りがないことが中心となり、しかも健康さを保たなければならない。」と、後年インタビューに応えています。「野の花のごとく」という言葉は、聖書の中で第二イザヤ40章に一度だけ出てきます。 (注:第二イザヤは、イスラエルの民は、神の法にそむいた罪により、きびしい試練《バビロン捕囚》にあうが、やがて、捕囚の苦しみをとおして罪は贖われ、民にむかって神によるゆるしと解放を告げる予言。) 

1937年、「海ゆかば」が作曲された年に、キリスト教者で東京帝国大学教授の矢内原忠雄が退官するという出来事がありました。国家の理想、神の国の講演で「日本の理想を生かすためにひとまずこの国を葬って下さい」と述べた内容が掲載された本が、発禁になり、大学を追われたのです。「ひとまずこの国を葬って下さい」というのは、正義と弱者を護るのが日本の理想である。この理想を生かすために、いったん葬ってくださいという意味でした。このことを同じキリスト教の影響を受け育った信時潔ほどの人物が知らないはずはなく、同じ時に天皇賛歌とも思われる名曲が作曲され、戦没英霊を迎える曲となっていったのです。

ご次男・次郎さんはこう言っています「運命に流されたようなものだな、と父は繰り返し述懐していました。逆風の中で、「海ゆかば」は歴史の激流中にあった当時の国民感情を、自分は国民の一人として歌っただけだ。」(万葉集巻十八・大伴家持言立コトダテによる)「海ゆかば」は、それまでずっと、日本の古典を読み、50歳までの作曲生活研鑽の集約としてできたのでした。国家、帝国葬送の歌、そして多くの民をいたぶった国を預言者的に哀れむ歌、それが「海ゆかば」、という歌だったのです。この歌でもって戦地に人をかりたてるというような意図はありませんし、深い思いは微塵もなく、むしろ本心は、国の理想を生かす、国がもう一度本来のあり方にもどるためにいったんこれを葬って再生を願う、しかしそこに多くの犠牲が出たわけです。

私(森田牧師)は、第二イザヤ章40章に眼がいったときに、二人に共通しているのは、このおかしい国を一たび葬って、そして真実な国に再生することを祈り願うという点で相通ずるのではと思いました。

もしあの時代に「海ゆかば」という歌がなかったならば、日本という国はもっと悲惨であっただろう。どこを向いても慰めになるようなものがないような状況のなかで、あの「海ゆかば」という歌は、本当に人の悲しみにふれ、どうにもならない悲しみを慰める力があった。「海ゆかば」がなければ、もっと悲惨になったと思います。

信時潔は路傍の在野のキリスト者だと思います。郊外に咲いた一輪の花である。一輪の花は栄華をきわめたソロモンも及ばないと、キリストの山上の説教にあります。多くの人が亡くなっていった。そういった国を一たび葬って再生しなければという思いを、激流に呑み込まれ、流されながら逃げないで、はまりこんで、時局の中で関係しているにもかかわらず、時代を超越している響きがあると思います。
 私は、そこにある信時潔の祈りをさらに求めてゆきたいと思います。(以上、講演より)

*第二国歌
 ヴェルディ作曲のオペラ・ナブッコの「行け、わが魂よ、黄金の翼に乗って」はイタリアの第二の国歌として親しまれています。サッカーのワールドカップ決勝の時にも、歌われるのでご存知の方も多いでしょう。イスラエルの民がバビロニアに捕囚され、故郷を思い歌う歌です。作曲された当時、イタリアはオーストリアの占領下にあったので、独立への強い願いの中、熱狂的に迎えられました。以来、イタリアの第二の国歌と親しまれています。

森田牧師のお話をうかがいながら、「音楽は野の花のごとく」の聖書に基づく由来も「バビロン捕囚」であることに気づきました。音楽として美しく、格調高く、一度聞いたら誰の耳にも深く印象を刻む「海ゆかば」が、第二次世界大戦中の経緯のために、本来ならば第二の国歌と今も尊ばれるべき作品であるのに、逆の運命を負ったことの不幸を感じずにおれません。信時潔と「海ゆかば」について戦争加担者としての見方は、一面的な批評であり、いまだ誤解され続けているのです。戦争が終わって、60余年が経た今、誤解と偏見が汎く正され、純粋に音楽として評価され、愛されることを願ってやみません。

以下、参考までに團伊玖磨の信時潔についての抜粋を添えさせていただきます。 
(團伊玖磨著・文春文庫『好きな歌・嫌いな歌』より)

「『海ゆかば』は、その雄渾でナイーヴな旋律と、荘重な和声が人の心を動かし、戦争中には、『君が代』に次ぐ準国歌としての役割を果たした。どれだけ多くの場所で、どれだけ多くの人にこの歌は歌われただろうか。信時先生は、その性、まことに明治の日本人であった。漢詩や短歌を愛好される東洋的な性格と、ドイツで習得された西洋音楽の伝統への傾倒が、仲々一つになれずに、そしてたまさか一つになり得た時に名作が生まれたのだと言える」。

「信時先生は、明治・大正・昭和を孤高に生きられたが、あまたの依頼があったに拘らず、軍歌を一つも書かれなかった。山田先生がその方向にも稍々協力された事を思うと、信時先生の孤高さは立派である。先生は、若い頃救世軍に身を投じた程の、平和主義者だったのである。『海道東征』も『海ゆかば』も、軍国主義に同調して書かれたものでは無く、日本人としての先生にとっては、真剣に、自然に生まれた作品だったと言える」「(『海ゆかば』は)作った先生にとっての『海ゆかば』と、世間の『海ゆかば』の受け入れ方、使い方の間に、どうにも仕方の無いギャップがあったように思われてならない。然し、そうした事が戦争なのだと思われなくも無いのである」

さてもまた、音楽の正しい理解もずいぶん難しいものだとつくづく実感しますが、それでも定説という名の曲解をおそれずに、ひたすら音楽に向き合って自分の人生を問い直そうという姿には、うたれるものがあります。

合田 泰子

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