『ラシーヌ便り』no. 62

2010.11  合田泰子

《合田泰子のワイン便り》

 この季節になるといつも思うことですが、空気が澄んで心地よく、ワインのおいしい季節です。先日、ジュリアン・クルトワのフラン・ピエ2005を味わって、感激しました。10月20日の試飲会でも、ラシーヌ2005は、堂々とした格を感じる味わいにまとまってきていましたが、ジュリアンのフラン・ピエもヴィーニュ・フランセーズならではの、奥行きがようやく調和のとれた味わいの中に現れてきました。ワイン・バーで親しい方々と飲んでいたのですが、「いつも、こんなふうだったら、苦労はなかったのに」と、思わず本音を言ってしまいました。今月は少し長いお便りですが、どうぞお付き合いください。

1) マルセル・ラピエールの訃報
2) ル・モンド紙 マルセル・ラピエール追悼文
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 1) マルセル・ラピエールの訃報
ご存知のように、10月11日マルセル・ラピエールさんが亡くなられました。読売オンラインに10月13日の記事に詳細が伝えられています。
http://www.yomiuri.co.jp/gourmet/drink/wnews/20101013-OYT8T00453.htm

自然派の誕生は、ボジョレーのネゴシアンに生まれたエノロジスト、ジュール・ショヴェが酸化防止剤非使用による醸造を提唱したことに始まります。純粋に果実味とテロワールを映しだすワインをつくることが目的でした。続いてピエール・オヴェルノア、シャトー・サンタンヌのマルキ・デュテイユ・ドゥ・ラ・ロシェール、が実践、1981年にマルセル・ラピエールが試み始め、マルセルに影響を受け、モルゴン、フルーリーで次々と自然派のワイン造りの輪が広がってゆきました。ティエリーとジャン・マリー・ピュズラ兄弟、ヤン・ロエル、ピエール・ブルトン、ジャン・イヴ・ペロンらは、醸造学校やボルドー大学で近代醸造学を学び、マルセルのワインを味わって、方向を転換しました。当時数人しかいなかった自然派の造り手は、今では100名をはるかに超えます。マルセルのワインは、多くの造り手たちに、衝撃的な動機づけとなりました。自然派ワインが広まってゆくきっかけを作ったといえるでしょう。

私も、ボジョレーの地でご本人から、またレストランで、何度も1980年代のモルゴンを味わう機会を得て、自然派ワインの理解を深めてきました。心よりご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご子息のマチューさんが、素晴らしいワインの世界を築いていかれることを願ってやみません。


マルセル・ラピエールのカーヴにて
(左:マルセル・ラピエール、右:ギィ・ブルトン)
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 2) ル・モンド紙 マルセル・ラピエール追悼文

『ル・モンド』(10月16日)にマルセル・ラピエールの訃報が載っていました。マルセルが負った困難な状況は、ピエール・オヴェルノワや続く自然派の造り手たちが歩んだ道そのものです。自然派ワインについて明確な記述が掲載されているので、参考までにその内容をかいつまんでお知らせします。


「マルセル・ラピエール、逝く」『ル・モンド』(10月16日付)
(Jean-Claude Ribaut 記)
ヴィニュロン・マルセル・ラピエール

ボジョレ地区のヴィニュロン、マルセル・ラピエール氏(1950年4月17日生まれ)が2010年10月11日にヴィリエ・モルゴンで長い闘病の末亡くなりました。この傑出した栽培家にとって、ブドウは自然であり、また厳しい労働と文明の表現である栽培も自然でした。1973年に家業のドメーヌを継いだ当時、時代はまさにボジョレ・ヌーヴォーの全盛期でした。ラピエール氏の師となる先駆者であるジュール・ショヴェ氏との出会いによって、彼の進む道は決定付けられました。この出会いによってラピエールは「un vin tout raisin」ブドウだけでワインを造ることとなったのです。


原則は、ガメ・ノワール・ア・ジュ・ブラン(白い果汁のガメ)から時間をかけてワインを造ること。人工的で、規格化されたボジョレには土壌とテロワールが皆無で、「手早く作って、すぐに飲み、すぐ捨ててしまう」ようなもの、そのようなボジョレとは根本的に異なるのです。

ラピエールはルドルフ・シュタイナー(1861年オーストリー生まれ)が提唱した、ビオディナミとエコロジーの思索に由来する、最も自然環境を損なわない理論に霊感を受けました。シュタイナーは晩年、自然への畏敬と、宇宙と人間の調和に関する難問に関して、ゲーテの文書の中にそのヒントを得たのです。ラピエールにとってブドウは、真の自然の表現であり、有機栽培によって本来の尊厳性を恢復することが望ましいと考えていました。 

1980年代、ラピエールは先ずAlain Braik(Jean-Paul Rocher社からLes Raisins de la raisonを出版した)と出会い、続いてGuy Deord氏と出会いました。彼はラピエール氏にこう打ち明けました。「状況に追随する日和見主義者どもの隆盛が続く時代に、「酒に酔った人生は難しくなるでしょう」


 非暴力抵抗
1980年代、マルセル・ラピエールはボジョレの10のアペラシオンの一つであるモルゴンにおいて、他の造り手とは異なった方向を歩み出しました。

彼のビジョンの基本的なところは、土壌の微生物と植物性の物質の分析であり、これによりワインの香りの生成過程においてブドウ畑の耕作の仕事と固有酵母の役割が重要であることを再発見しました。基本の原則は、畑の休息期から発芽するまでと開花期から収穫前までの間、除草剤、化学肥料で畑を損ねないことです。

醸造においても同様です。完熟したブドウのみの収穫、人工的な補糖、加熱による濃縮など論外です。マルセル・ラピエールにとって、厳しい状況でした。「1990年最高の年に、造り手たちはとんでもない愚挙に出ました。致命的なほど補糖し、酵母を加え、濾過し、遠心分離機処理をし、酢酸イソアミルで水増ししました。」その結果ボジョレ・ヌーヴォーはバナナとキャンディの風味を帯び、8000万本ものワインがひどい品質となってしまいました。あげく、この10年間は不況が続き、ボジョレを今なお悩ませています。

マルセル・ラピエール氏は、ほぼ宗教のように熱意を持って収穫しました。彼は絶対自由主義者の「金曜日」氏(『ロビンソン漂流記』に登場するロビンソンの友人)のように、大変自然に近い人で、自然が全てを実現し、全てが自然の中で実現するという昔の時代のやり方に戻りました。暴力を用いずに、彼の夢、願い、思い出、彼が思う黄金時代の形影をワインに移し、抵抗することによって敵と戦いました。

合田 泰子

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