2010.02.24 合田泰子
《合田泰子のワイン便り》
Luca Fedrigo ルーカ・フェドゥリーゴ 32歳。新しい造り手の登場です。
【出会い】
昨年11月、ボーヌとピエモンテ出張の出発直前です。塚原が、いきなり「さあ、ヴェローナに行こう。この造り手には会わなければいけない。」と、言いだしました。いつものことながら、大慌てで予定を変更し、日曜の移動時間を融通してヴェローナを訪ねました。セラーに入って、試飲のためのテーブルに座ったときの驚きは言葉では表せません。
こうして、ヴァルポリチェッラの若獅子のような生産者とラシーヌとのお付合いが始まりました。が、その背後には、ヴァルポリチェッラをめぐる私たちの歴史があるので、そのごく一端を披露させていただきます。
【前史 : ラシーヌとヴァルポリチェッラ】
ルーカ・フェドゥリーゴは、ヴァルポリチェッラのブドウ栽培者の家に生まれ、十数年の間、なんとジュゼッペ・クィンタレッリのもとで働いていたのです。
ご存じのように、私と塚原が㈱ル・テロワールを運営していたとき、ジュゼッペ・クィンタレッリと取引させていただいていました。じつは、二人とも長らく奥深さと偉大さをともに強く訴える、その味わいに魅了されていましたが、ようやく1997年4月のこと、恐る恐るマエストロ・ジョゼッペのもとを初めて訪ねました。なぜ、恐る恐るだったかといいますと、バートン・アンダーソンの『ワイン・アトラス・オヴ・イタリー』に掲載された壮年期ジュゼッペの写真が、眼光あくまで鋭くて容易に人を寄せ付けないような風貌だったからです。
さて、地下にあるジュゼッペのセラーには、丸い鏡板をしたスラヴォニアン・オーク樽がぎっしり並んでいました。樽の壁に囲まれた暗くて冷たいセラーの中で、時間が止まったかのような一時を過ごしました。ジュゼッペは細長いテーブルの片隅から、何日か何週間か前にあけたボトルを次々に取出し、少量を慈しむように小さなテイスティング・グラスに注いでくれました。もちろん、スピトゥーンなどあるわけがなくて、凝縮された至宝のような美味を、ゆっくりと飲み下しました。このような儀式めいたテイスティングと歓談が、その後、何回続いたことでしょうか。
1924年にジュゼッペの父シルヴィオ・クィンタレッリがネグラールに興したアジエンダは、50年代にジュゼッペが参加し、今日までイタリアを優雅かつ個性的に代表する造り手として尊敬されてきていました。その後、ジュゼッペの後継者とワイナリーの帰属をめぐる噂は、イタリアの内外に密かに流されていましたが、どのような決着がついたか詳らかではありませんし、私たちの興味の対象でもありません。老いたるジュゼッペの健勝を祈るばかりです。
「クィンタレッリの真の力の源は、献身的に働く家族と仲間たちの協力のもと、小規模な使用貸与契約を結んでいる数々の畑と、ヴァルポリチェッラでも最良の畑で入念にセレクションされた、ごく小ロットのブドウを計画的に購入していることに求められる。」と、ジュゼッペの甥であるアルベルトが社史の中で語っています。
【ルーカ・フェドリーゴ : ジュゼッペの再来】
ルーカ・フェドゥリーゴの父は、クィンタレッリにブドウを売っていた栽培家の一人でした。息子のルーカは14歳のときから、クィンタレッリのもとで働き始めました。最近にいたるまで、畑とセラーでの重要な仕事はルーカが担っていたと聞いています。その間、クィンタレッリで働きながらルーカは、少しずつ父の畑のブドウで醸造を始め、1999年からアマローネを造り、2003年にはロッソ・ヴェロネーゼとヴァルポリチェッラ・クラシコを造りました。全生産量の95%がすでに世界中に輸出されているため、イタリア国内ではほとんど見かけることがありません。
昨年11月30日月曜日の朝、久しぶりになつかしいヴァルポリチェッラを訪れました。ルーカのテイスティング・テーブルに座った瞬間、私は胸が一杯になりました。スラヴォニアン・オークが眠るセラー、樽の間にしつらえられた大きなテーブルの左の角に座るルーカは、まさしくジュゼッペさんの姿と重なります。静かな時間、テイスティング方法、ワインの味わいと過ぎゆく時間は、1997年にタイムスリップしていました。