2009.03.27 合田泰子
《合田泰子のワイン便り》
アルザスにシュレールを訪ね、ドーヴィルのサロンをまわって、2月26日に帰国しました。フランスに着いてすぐ、バローロの造り手「テオバルド・カッペッラーノさん」が亡くなったと聞き、予定を変更し、ご葬儀に行ってきました。
1) ラシーヌとテオバルド・カッペッラーノ
テオバルドさんとの出会いについては、ラシーヌのホームページに掲載してありますが、私たちにとっては本当に大切で、特別な方でした。イタリアを代表するワイン生産者であるだけでなく、偉大な知性の持ち主でもありました。彼を知る人はみな、テオバルドの人柄を「温かく知性と愛情にあふれた人」と表現します。が、私は彼のワインを通して、優しさと深い知性をたたえ、人間の複雑さと多様さを楽しんだ、知識人としての大きさを感じます。自然派のワインにありがちな単調さがまったくなく、感覚と精神に働きかけるユニークな印象は、他のいかなる生産者からも感じることができません。 カッペッラーノのワインを扱わせていただいたことは、ラシーヌにとって、とても大きなできごとでした。ワインは理想ともいうべき味わいの境地にあり、テオバルドその人も、イタリアワイン界の奥行きと深さを体現していました。これほどまでに素晴らしいと思えるワイン/ワイン人と仕事ができたことで、どんなことがあろうと、信じるビジネスを果敢に貫いていこうとする勇気が出ました。もっと、もっと、訪ねていって、たくさんのことを聞かせていただいとけばよかった、もっと、もっと、彼のことを知っておきたかった。どうして、もっと早く知り合うことができなかったのか、残念でなりません。
4月 ヴィニタリー
2月24日3時から、一族の名前が冠された、ピアッツァ・マリア・カッペッラーノでご葬儀が行われました。友人葬といえばよいのでしょうか、電子ピアノで、バッハの演奏が奏でられるなか、棺を囲んで、友人たちの思い出と弔辞が続き、300人近い人々が、涙をたたえながら、静かに時を過ごしました。今年のピエモンテ地方は、寒くて畑にも雪が残り、アルプスの山々は真っ白に輝いていました。けれども、葬儀の間じゅうだけ、日差しが温かく、コートがいらないほどでした。その場にいたすべての人が、テオバルドとの思い出をいとおしみ、同時代を分かちあった感謝の気持ちを表わすために集い、別れを伝えていたと感じました。葬儀後、広場のカフェにバローロ地区はもちろん、トスカーナ、スロヴェニア、ウンブリア、ローマ、各地からテオバルドと親交のあったワイン関係者が集まり、カッペッラーノの銘品「バローロ・キナート」でもって冥福を祈りました。その夜は、ワインを傾けながら、古典ギターの演奏を聴き、思い出話はつきず、ホテルに帰ったのは1時を過ぎていました。トリノからパリは、空路で1時間ちょっと、予定通りパリからの便で帰りました。
2) 岩崎幹子さんよりいただいたテオバルド・カッペッラーノ逝去についてのニュース
ピエモンテ地方の北部にあるビエッラに住み、通訳をされている岩崎幹子さんは、「ぶじゃねん通信」という活き活きとした情報発信をされています。岩崎さんから、弔辞(セッラルンガ村の村長ニコラス・カバセスさん、マリア・テレーザ・マスカレッロさん、ジョヴァンナ・モラガンティさん)の要約と、記事の翻訳をお送りいただきました。岩崎さんのブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/bogianen2000/folder/1730049.html
とあわせてご案内いたします。
村長ニコラス・カバセス氏
「人を失うという事は、残されたものに大きな深い悲しみを与えます。しかし、テオバルド、貴方を失ったことは、私たちにとってはるかに大きなことを意味しています。この数日間、貴方を愛するこの村の人たちは貴方が私たちにくれた多くの言葉や私たちに教えてくれた事、私達のために与えてくれた事を思い返し、涙を流してばかりいます。ここで、貴方のこれまでの多大な功績を私の口から一つ一つ述べることはよしましょう。ただ、一つここで言っておきます。私たちはこれからもあなたの事を思い続け、エンマ(夫人)とアウグスト(子息)のそばに常に居続けます。穏やかで、知性と愛情に溢れた貴方と過ごした時間は私たちにとって貴重なものでした。貴方は私たちにとってまさに『微笑むバローロ』だった。 私が貴方についてここで多くを語るのはやめます。貴方を想いながらここに集まった人達みんなが、私と同じように最後の別れを惜しみたいと思っているからです。そういう人たちにマイクを渡します。」
マリア・テレーザ・マスカレッロさん(バルトロ・マスカレッロの息女)
「私の父の葬儀の後、私はバルドに『また会いに来てね』といいました。貴方は本当にそうしてくれました。その事が私には大きな励みになった。あれから4年、貴方まで逝ってしまうなんて、誰が思ったでしょう。私は、貴方にはじめて会った時のことを覚えています。バローロ州立エノテカの会長に貴方がなったばかりで、リナルディのところに挨拶に来た日でした。私はまだ小さく、父に連れられて、たまたまそこに居あわせたのですが、リナルディ親子と話しこむ貴方に私の父も加わって、議論が続きました。私は、貴方たちの会話がよく分からなかったけれど、貴方の背の高さに圧倒されました。でも、そのうち話していることが少しずつ理解できるようになった。ワインについて、政治について、人について、皆は議論して、議論して、議論し続けた。それは穏やかに、しかし情熱をもって。
いつも会うたびに議論に議論を繰り返しました。が、父は亡くなった。私は父の仕事を引き継ぎました。でも、貴方たちが議論するとき、いつも私の父の席が空いたままだった。私のところにベッペ(ジュゼッペ・リナルディ)やバルド(カッペッラーノ)が会いにきてくれ、彼らと私のお喋りが始まった。そして気がついた時には、私も貴方たちの議論に加わっていました。議論して議論して議論して、穏やかに、しかし情熱をもって。それは私たちのアイディアの素敵なアッセンブラッジョのようでした。でも、貴方はいなくなってしまった。貴方のいない空間を、私たちにどうやって埋めろというの? 私はいつかやっぱり、アウグスト(カッペッラーノ)が私たちの議論の場に加わって欲しいと思います。議論して議論して議論しましょう。穏やかに、でも情熱をもって。」
ジョヴァンナ・モルガンティさん
「 (テオバルドの棺の左側に立ちながら)バルド、今日も私は貴方の左に立つわよ。私は、一緒にテーブルにつくときも、討論会のときもいつも貴方の隣に座っていたから。今日も貴方の左よ。私は、実は今日、この場に来たくなかったの。私の森の中で貴方のことを想い出す方がいいと思ったから。でも、アウグストがどうしても来いっていうから来たのよ。思い返してみればいつもそうだった。私はいつもバルドに引っ張り出されてやっと外に出ていたわよね。
私には小さな子供がいるけど、まだ貴方をバルドと呼べない。いつもバルトゥとしか呼べない。でも、バルドが来ると大喜び。だって大きいでしょ、子供は吃驚するわよね。でも、それだけでなくてバルドとお喋りするのが好きだった。楽しんでいた。実は、私もそうだったのよ。バルドといろんなことを話したけど、どんな話をしているときも、私自身が楽しんでいたわ。貴方は大きな木だった。貴方の理想や、情熱は空に向かって広がる枝のようで、私たちはその木陰で遊んでいた。いってみればバオバブの木よ。夢があって、人の心を温かくしてくれた。
バルドは私が何かの問題に悩んでいるとよく言ってくれたわ「この頑固者、成り行きに任せてしまえばいいじゃないか」って。ありがとうバルド。」
ちなみに、テオバルドさんは、リナルディさんのお父さんからバローロ州立エノテカの会長を引き継ぎ、十年近く在籍していらっしゃいました。現在は女性(この方も弔辞を読まれましたが)でシルヴァーナさんという方が務められています。他の方は予め用意された弔辞を読まれていましたが、ジョヴァンナさんだけは、その場で即席の弔辞を捧げました。スタイルも上記のように、半ばテオバルドさんに、半ばその場にお出での人たちに、話しかけるというぐあいでした。
「微笑むバローロ」という表現ですが、伏線があります。イタリア人は“far ridere”(笑わせる)という表現をよく使います。例えば、ある人が面白いことや下らないことをいって「笑わせられる」なのですが、テオバルドさんは、いつもその表現は使わず“far sorridere”(微笑ませてくれる)という表現を決まって使われていました。他の人がこの表現を使うのを、私はあまり聞いた事がありません。主人は使う人は他にもいるといいますが、この場で弔辞を述べられた人たちが何回となく「微笑む」を使っているところをみると、やはり彼独特のとても品のある表現だったのでしょう。
新聞LA STAMPA紙に掲載された追悼記事は以下のHPに原文が掲載されています。
http://www.lastampa.it/_web/cmstp/tmplrubriche/giornalisti/grubrica.asp?ID_blog=128&ID_articolo=165&ID_sezione=280&sezione=
岩崎 幹子
P.S. テオバルドと同じく1944年生まれの塚原は、会うたびにユーモアにあふれた会話を楽しみ、出会いと、ワインを通しての交流を心より喜び、大切にしていました。あらためて、テオバルド・カッペッラーノさんとそのワインに出会えたことを感謝し、心よりご冥福をお祈りしいたします。
なお、4月には恒例のヴィニタリーに出かけます。
合田 泰子