2008.10.1 合田泰子
《合田泰子のワイン便り》
ブルゴーニュとシャンパーニュをへてイタリアへ入り、駆け足で各地をまわって帰ってきました。収穫を9月20日過ぎにひかえて、セラーはどこも嵐の前のような静けさでした。が、収穫期なのに気候が不安定で、フランスでもイタリアでも、風が吹き始めたかなと思うと突如として黒雲が現れ、しばらくするとたたきつけるような雨が降るということが、しばしばありました。本当に天候が荒っぽくなってきているのですね。
また、フランスとイタリアの両国では、有機栽培に転換する動きがとても活発になっていますので、5年後、10年後が楽しみです。
話はかわりますが、昨日、今東光夫人のお葬式に行ってまいりました。今月は、その方にちなむ思い出を記させていただきます。
今 東光先生の思い出
今東光(1898・3・26~1977・9・19)という方をご存知でしょうか。晩年は、雑誌「週刊プレイボーイ」で洒脱あるいはいっけん軽薄に見える文章を載せたため、当時の若者のあいだで人気を呼びました、が、じつはたいへんまじめな方でした。谷崎潤一郎を師と仰ぎ、「お吟さま」で直木賞を受賞した作家であり、川端康成の親友でもありました。天台宗の大僧正となり、瀬戸内寂聴さんの師僧であられた方です。作品は集英社文庫、文春文庫、講談社文芸文庫などで今でも手に入ります。
父の縁で私は幼いころから、八尾にあった今先生のお宅によくおじゃましました。東京に下宿していたときは、「お嬢、今からおいしいケーキを食べに行こう」とか、「今日はね、フランス料理を食べに行こう」と、下宿先にお電話をいただき、シルクハット型のクラシックカーのようなメルセデス・ベンツに乗せられ、「小川軒」や銀座の「胡椒亭」、代々木の「ローン」(アメリカンパイ)でご馳走になりました。関西育ちの私にとって、初めての「東京の味」でした。山高帽をかぶり、ステッキを持った先生は、和尚様というより、本当にハイカラで素敵な紳士でした。よく通る声は、あたたかく響き、平泉の中尊寺での願文を奏上されるお声は今も耳に残っています。
先生は、「和尚の舌」という本を書かれるほど、美食家であられました。私の父もまた、黒門市場の裏に「屋台のステーキ屋」ができたといっては通い、どこどこの裏通りに、おいしい・・・・があると聞いては探して食べに行くような、食いしん坊でした。そんな先生と父が、「おいしいもの」の話に興じているとき、二人の顔はとても楽しそうでした。私の原点は、その辺りにあるのでしょうか。
1977年10月22日、先生のご葬儀の際には、当時の福田首相や椎名悦三郎氏の献香や弔辞が続くなか、前日パリから駆けつけられた東郷青児さんが「青春の思い出」を述べられました。遠い明治・大正の時代の香りがあふれる素晴らしい弔辞には、心打たれました。
先生が亡くなられてからも、お誕生日やご命日にうかがったおり、奥様の「きよ夫人」からいろいろなことを教えていただきました。ワインの仕事を始めてからは、銀座「れんが亭」からいただかれた、大きなグラスで、乾杯をしました。ミュニュレ・ジブールのニュイサン・ジョルジュがお好きでした。奥様は、お背も小さかったのですが、何よりもとてもかわいい方でいらっしゃいました。厳しい方でしたが、人の背負っている痛みの深さを受け止め、どのようなときにも潔くあることの大切さを教えてくださいました。ロセッティの絵画や先生の数々の思い出の品に埋められた千葉のお宅で、季節の美味をいただきながら、どれほど生きていく勇気と智恵を教えていただき、温かく励ましていただいたことかわかりません。
思いがけず私は、今月発売の『HERS』の「彼女の時間」というページで、取材をしていただきました。その中で、先生のお墓参りをしている写真が載せられています。9月19日の先生のご命日を前に、お供えさせていただきました。その9月19日の朝、奥様が87歳で亡くなられました。まさに素晴らしいご夫婦であられたのだと私には思えます。 先生、奥様、本当にありがとうございました。 ご冥福を心からお祈り申し上げます。
合田 泰子