『ラシーヌ便り』no. 82

2012.08  合田泰子

 

  

《合田泰子のワイン便り》

 毎月ヨーロッパ出張が続きましたが、今月は小休止。待ちに待った、オーストリア・ワインとドイツのクレメンス・ブッシュの第一便が到着し、いよいよラシーヌの「中欧ワイン・シリーズ」がお目見えしました。第2弾のコンテナでは、「伝統的な栽培と賢明な醸造から生まれる、至上のカリテ・プリ、ヴァグラムのセルナー」が入荷しました。大きな反響をいただいておりますが、まだお試しになっていない方は、是非お試しください。低価格帯ながら、優れた栽培と高い醸造レベルから生まれる正統派の味わいです。

 

ジュゼッペ・ラットさんのこと
 亡くなった造り手の思い出ばかりが、毎号続いてしまいましたが、ジュゼッペ・ラットさんとの出会いも大切な思い出です。皆からジュゼッペを縮めた「ピーノ」と呼ばれましたが、奇矯な性格のゆえか、「マッド・ラット」とも呼ばれてきました。ピエモンテ地方の南、オヴァダのロッカ・グリマルダで、ユニークそのものの長熟型ドルチェット酒を造ってきました。
 初めて彼のワインを飲んだのは、1996年ごろだったでしょうか。六本木にあった名店ラ・ゴーラの澤口シェフから、ビンの底にほんの僅か残っていたのをご馳走になりました。イタリアで長らく本格的な修行をされた澤口シェフは、各地の伝統的なワインを幅広く経験されてこられましたが、ラットさんのセラーは何度も訪ねられたそうです。ラ・ゴーラでソムリエをされていた山崎さんにいたっては、住み込みで収穫をされたこともあるとか。
 ラットのワインに出あった当時のわたしは、イタリアワインをまだ勉強し始めたばかり。どちらかといえば、モダンな味わいのワインを味わう機会が多く、ピーノが造るようなワインは初めて味わった世界でした。独特な香が立ち、やさしく滋味豊かで奥行きがあり、エネルギーを感じさせる味わいに、一口でとりこになってしまいました。
 ラット・ワインの記憶は鮮明に残っていたので、しばらくしてバルバレスコのネイヴェにある「ラ・コンティア」へランチに行ったとき、1971年レ・オリヴェ(当時の金額で1500円)を見つけ、狂喜しました。しかも、なんとサイン入りのボトルでした。その場で、「ピーノ」に電話をしました。たいていは、畑かセラーで作業されておられ、携帯電話も持ってないので、なかなか電話はつながらないのですが、その時は電話がつながりました。イタリア語が話せないので、フランス語で話しかけたら、フランス語で返事が返ってきたときの嬉しかったこと。すぐに会いに行きたい旨を伝えたところ、来てもらっても売るものはないし、人に会うのは好まない、という素っ気無い返事。でしたが、早速タクシーでオヴァダ方面に向かい、高速道路の出口まで迎えにきていただきました。

 使い古した農作業の車でカンティーナに着くと、道端でアヒルやら、犬やら、猫やら、鶏が一群になってピーノを待ちわびていたかのようにすり寄り、犬とアヒルは文字どおり車に体当たりしてきたのです。小さなころ読んだ、ハンス・フィッシャーの絵本『こねこのピッチ』のリゼットおばあさんのようだと思い、飼っている動物がこれほど喜びのあまり興奮して集まってくるのに、驚きました。セラーで、「これ、飲んでみるかい?」と、コップで汲んで渡された透明な液体は、なんとグラッパだったのですが、古樽で長く熟成されたグラッパのなんと純粋で素晴らしい味わいだったことか。
 1935年生まれのピーノは、ジェノヴァ大学で薬学を学んだ後、家業のワイン造りを継ぎましたが、趣味のクラリネットはパレルモのジャズ・フェスティヴァルの常連メンバーとして演奏を楽しんできたと聞きました。手書きの文章は知的で独特な才があり、判読も翻訳も不可能に近いものがありました。
 前社ル・テロワール時代から、リ・スカルシ、レ・オリヴェ、グラッパ、ラ・バルベーラ、ムスカテを輸入してきましたが、本当に多くの熱烈なファンに愛されたワインでした。ピーノによれば、「リ・スカルシとレ・オリヴェは、畑は近い場所にあるけれど、全く違う二つのワインに表現されている。バローロとバルバレスコのように違う。レ・オリヴェはより男性的で、リ・スカルシはより女性的」。熟成を経て美しく成長したリ・スカルシはエレガントで、レ・オリヴェはミネラルの骨格があり、果実味が厚く、深い風味があります。ピーノの兄弟のような終生の友、ルイージ・ヴェロネッリは、多くのイタリアワイン・ファンに惜しまれつつ亡くなりました。いまわの際、ルイージの最後のワインのためにと、ピーノは二本のワインを持っていったけれど、その時すでに亡くなっていて、間に合わなかったと、イタリアのポルトスのインタヴューでピーノは語っています。

 ピーノの思い出は、つきません。2005年のヴィニタリー開催中に、ヴェローナの名店「ボッテガ・デル・ヴィーノ」にピーノと食事に行きました。意外にも、リストにピーノの古いワインがヴィンテッジちがいで数種も載っていました。「これはどこで仕入れたものですか」と、ピーノが店の方に訪ねるたら、「造り手のラットさんからです」という答え。「私が、ジュゼッペ・ラットだけれど、こちらに販売したことはないなー」。あわててソムリエが奥に行って記録を確かめ、「ミラノのコレクターから仕入れました」と訂正しました。ミラノに住むピーノの長年のファンが亡くなり、コレクションがここに買い取られたのです。 

 ピーノのワインは、若いうちは漢方薬の粉のような癖のあるにおいが気になり、またおそろしくタニックで酸も高く、変質しているのではないかと思うほど奇妙な味がすることが多いのです。が、古樽で長い時をかけて醸造されるワインは、ビンの中で5年、10年を経て、生きているさまざまな要素が成長し、調和を得てくると、ようやく偉大な味わいが姿をあらわすのです。
 ある時、ジェノヴァの空港レストランで、地元のワインとしてピーノのレ・オリヴェをすすめられたことも懐かしい思い出です。2004年に鉄砲水が土砂崩れを引き起こし、急峻な畑は流され、セラーの壁を突き破って泥水が入りこみ、樽も汚れてしまいました。到底、老いたピーノが一人で回復できる状況ではありませんでした。以後はセラー環境が決して良いとはいえませんでしたが、それでもピーノは快く一緒に樽選びに応じてくれ、良い樽(2003年レ・オリヴェ)を「ラシーヌのために」と、600本のキュヴェを詰めてくれました。 
 不調のためピーノは手術を繰り返し、病院に入院していると、人づてに聞いていました。2008年ごろのピーノには、崩れた畑を作り直し、また長年手入れがされずに潅木が覆っている畑の手入れをして、ブドウを植え、セラーを作り直して…という、雄大な構想があったのですが、しょせん、独力ではどうすることもできなかったようです。また、当時のラシーヌでは、お手伝いする力もなかったのが残念です。イタリアで自然派ワインの催しでも何回かお目にかかって立ち話をしましたが、その後なぜか消息が不明になってしまいました。今年の3月ごろ、ピーノが亡くなったという噂が流れてきましたが、現地に確認しても安否ははっきりとはわかりません。
 先日、ピーノのワインを大切にセラーで熟成されておられるレストランで、トリオンセTrionze2001を楽しみました。トリオンセはオヴァダ最上の畑で、ピーノの隣人が造っていたのですが、後継者がいなくなってワイナリーを閉め、畑は人手に渡りました。たまたま、2001のブドウをピーノが譲り受け、醸造したのでした。ルイージ・ヴェロネッリが、「これほどイタリアらしさを体現したワインがあるだろうか」と讃えたワインです。ミネラルと果実味が溶け合い、上品な味わいをゆっくりと楽しんでいると、ピーノのちょっとしゃがれた、やわらかで静かなささやきが聞こえるかのようで、涙がとまりませんでした。ル・テロワールを離れないと行けなくなった時、「後ろを向くな、前進あるのみ。人生はエモーションだ」と真っ先に手紙を送ってくださった、ピーノ。一年に一度お目にかかるのを楽しみに待ってくださっていたのに、最近はお尋ねすることもできず、わずかに手元に残ったワインを楽しむだけでした。

 合田 泰子

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